9

 退院と同時に警察で証拠品として扱われているもの以外の私物をすべて受け取り、わたしは所長に連れられて病院を出た。烏丸と一緒に街に出たときと反対方向。彼がわたしの事務所があると言っていた青梅街道に歩いて出た。ここには信号はなく、地下鉄へと続く入口があるだけだった。
「この通りを挟んだ向こう側が探偵事務所ですね」
「そうだな」
「戻ってくるのにずいぶん遠回りをした気がします。記憶がないとはいえ、もっと早く戻っておくべきでした。許されるなら、烏丸と一緒に外に出たときに。そうすれば、あんなに悩んだりしなくて済んだかもしれない」
「そう自分を責めるな。お前は病院でずいぶん成長したよ。加佐村にはお前が探偵であるということに凝り固まっていると聞いていたから、もっとひどいことになっていると思っていた」
「ご心配をおかけしました」
 所長はにやりと笑い、地下鉄の階段をおりていった。わたしもついていく。営団地下鉄丸ノ内線の西新宿の駅だった。照明が妙に薄暗い。所長はその中を青梅街道を横切る形で真っすぐ歩き、ほぼ正面にあった階段を上った。ほんの少し地下に潜っていただけだが、夏の日差しは強烈だった。陽が直接当たらないように帽子を被り直したほどだ。
「お前の車もそのままだ。田中と清家が責任を感じていてな。お前がいない間、毎日車を研いていた」
「自分の仕事があるのに」
「私には分からんんが、車というものは毎日エンジンをかけてやらんと機嫌が悪くなるそうだな。清家がそう言っていた」
 わたしの車は角張った真っ赤な車だった。左ハンドルで外車なのは分かる。懐かしい感じはしたが、記憶を揺さ振るまでにはいかなかった。ただ、わたしはこんな車が買えるほど稼いでいたんだという妙な思いが浮かんできただけだった。
「何も思い出せないか」
「申し訳ありません」
「謝ることはない。事務所に戻るぞ」
「はい」
 駐車場を横切り、雑居ビルの前に出る。一階にはコンビニが入っており、所長はその入口の側にあるビル専用の入口から中に入っていった。郵便受けが並んでいる通路をずっと奥に進み、エレベーターの前に立つ。階数表示は一階のまま止まっていた。そのままエレベーターに乗り込む。所長は三階のボタンを押した。
「田中と清家が残っている。何を言っても構わないが、自分を落としめることだけは止めろ。護衛は奴らの仕事だった。奴らも責任を感じているんだ」
「依頼人のリクエストだったのでしょう。仕方がないことです」
「それが分かっているならいい」
 エレベーターが開いた。底には扉が開かれたままの三階ワンフロアを使った事務所があった。扉からは大きな木製のデスクしか見えない。おそらくは所長の机だろう。ここに隣にいる所長を据えてみる。わたしの想像でしかないが、初めて来た人間でも入っていきやすい雰囲気はあった。
 中に入っていくと、入口すぐのところに衝立てで囲まれた応接セットがあり、その向こう側にスチール机がいくつか並んでいた。そこで二人の男が難しい顔して、将棋を指していた。
「田中。清家。笹神だ。塩村氏の事件を調べるために帰ってきた。今日から二人に面倒を見てもらうことになるが、よろしく頼む。まだ記憶が戻ってないからな」
「笹神なら大丈夫でしょう。記憶を失っているくらいでちょうどいいんじゃないですか。普段のままだったら、相手を怒らせるだけでしょう。危なくていけない」
 所長のことばに答えたのは三十半ばを過ぎたがっしりした体格の男だった。わたしの方を見ながらにやにやしている。わたしはその男に向かって小さく頭を下げた。
「笹神。他人行儀は止めようや。いつもの通りの生意気な笹神でいい。それで俺たちはうまくやってきた。遠慮はいらない。好きなようにやろうぜ」
「そうだな。田中の言う通りだ。笹神が所長と話すようなことば使いをされたんじゃ、気持ち悪くてしょうがない。いつもの喧嘩腰でいい。その方が俺も気が楽だ」
 そう言いながら、振り向いた男の顔はえらく目立って見えた。いい男というのはこういう人間のことを言うのだろう。加佐村もいい男だと思ったが、こいつのはそれとは質が違っていた。彼のことばからすると、がっしりした男が田中、いい顔の男が清家ということになるようだった。
「まあ、そういうことだ。笹神。うちでは固くなる必要もない。気楽にやってくれ」
 所長はわたしの肩をぽんと叩くと、そのまま自分の居場所にと帰っていった。わたしはその後ろ姿を見送り、田中と清家の方を向いた。二人ともわたしを興味深そうに見つめていた。
「勝負の方はいいのか」
 田中と清家は同時に盤面を見て、作ったような清家が苦笑いを浮かべて、盤の上に駒を落とした。わたしにはどういうことか分からなかったが、清家がこれ以上勝負を続ける意思がないことだけは分かった。
「わたしのせいみたいで悪いな」
「気にするな。心配されなくてもこれで五連敗だ。俺は田中には勝てないように出来ているんだ」
 清家はそう言うと、白と青に色分けされたパッケージを取り出し、煙草を銜えた。ごつい銀のオイルライターを擦る。深く吸って、大きく煙を吐き出した。
「それで、笹神はどこから始めようと思っているんだ。何事にもはじめが肝心だ。塩村の線から攻めてみるか」
「ああ。J&Wメディカル・ジャパンにいって会える人間に会おうと考えている。警察が調べて荒らした後だろうが、少しは状況がましになるんじゃないかと思っている」
「調査する根拠でもあるのか」
「塩村は研究論文が入ったアタッシュケースを強奪されている。真っすぐにみれば、犯人の目的が塩村の論文だったと考えるのが妥当だろう。内容を聞いても分かりはしないだろうが、同じ研究をやっていた仲間の話でも聞ければ、それが糸口になる」
「そんなことを聞きたかったわけじゃない。俺が言いたかったのは、お前が塩村のことを調査する義務がどこにあるかということだ。彼は所長の推薦を蹴ってまで、お前に拘り、その挙げ句、二人とも怪我を負わされた。言わば、自業自得だ。敵を取ってやる必要はないんじゃないか」
 清家の顔はさっきとは比べものにならないくらい真剣な顔つきになっている。黙って聞いている田中も怖いくらいの顔つきになっていた。
「わたしにはどういうことになっているか、まったく覚えていない。それでも、このずきずきとする頭の傷が疼くんだ。探偵なら最後まで責任を持てと。もちろん、この事件が警察の管轄で、探偵が出る幕などないのは分かっているさ。だけど、この事件だけは自分自身ででけりをつけたいんだ。敢えてことばにするのなら、わたしの意地だろうな」
「つまんないことに拘ってるな。まあ、その考え方は嫌いじゃないが」
「無理して付き合ってくれなくてもいい」
「誰がこんな面白いことをほっとくかよ。これが金にならないのは残念だが。加佐村といったよな。俺たちを疑ったあの警視の鼻っ柱をへし折ってやろうぜ」
「清家の言う通りだ。俺も笹神の行動には出来るだけのサポートをする。今度こそ文句は言わせねえぞ」
「分かった。感謝する」
 田中が立ち上がって、わたしの肩をがっしりと掴んだ。荒っぽい扱いだったが、今のわたしにはこれくらいの方がありがたかった。下手に気を使われるよりはずっといい。長い間忘れていた、仲間という感じがした。
「じゃあ、J&Wメディカル・ジャパンに乗り込んでいったみるか。自分のところの研究員が襲われたことだ。まさか、協力しないとは言わないだろ」
 清家に言われてみて、会えない可能性もあることに気が付く。考えてみればいい。わたしは会社の大事な研究員を守れなかった探偵なのだ。警察が相手ならともかく、間抜けな探偵に付き合う理由などどこにもない。少なくともわたしが同僚の研究員の立場なら、会う気はしなかった。
「わたしに会う理由が向こうにはない。わたしなら絶対に協力しないだろう」
「どうしてそう思う」
「会社として警察に調査を受けたことだけでも大きなイメージダウンのはずだ。塩村に関わりがある探偵とは言え、簡単に相手にしてもらえるはずがない」
「確かに言う通りだ。しかし、会社だって塩村が奪われた論文の行方は気にしているはずだろう。その点をつくことも出来るんじゃないか。否定するより、まず行動することだろう。それが笹神のやり方じゃなかったのか。違うか」
「わたしのやり方?」
「分からないなら拘る必要もない。お前の思うようにやってみろ。俺も清家も協力するから。お前の意地を通してみろ」
 田中のことばが終わらないうちに、清家が立ち上がり、資料らしきものが詰め込んである書棚から一冊のファイルを取り出して、わたしのもとに戻ってくる。差し出されたファイルを反射的に受け取った。『護衛に関する依頼書及び報告書』とワープロで打ったらしい文字でラベルが貼りつけられていた。
 ページをぺらぺらとめくってみる。
 分厚いファイルの一番最後にわたしが加佐村に見せられた塩村からの依頼書がファイルされていた。J&Wメディカル・ジャパンの塩村和幸の名前と担当のわたしの名前、依頼内容として、塩村本人と研究論文の護衛が印されてあった。その他に塩村本人の名刺が挟んであり、彼の所属するプロジェクトチームの連絡先が書かれていた。
「電話はかけてみたのか。わたしがいなかった間、調査する時間はいくらでもあったはずだ。警察に疑われていたとしても、連絡を取るくらいの暇はあっただろう」
「記憶を失っていても厳しい見方をする。笹神の言う通り、連絡は取ったぜ。向こうさんの反応もごくノーマルなものだった。その件についてはすべて警察にお任せしています。塩村の依頼に関してはお答え出来かねます。だとさ」
 わたしは自分の机に載っている電話を引き寄せ、受話器を取って、十桁の番号をプッシュした。今日は土曜日だから、休みということも考えられる。しかし、塩村の専門はウイルス学だった。病気をおこすもののことなどよくは分からないが、多分デリケートなものだろう。研究のために誰かが残っているという可能性もあった。それに賭けるわけではないけれども、調査の第一歩を先延ばしにするのが嫌だったのだ。
 気が短く生まれついているのか、それとも好奇心を充たすために行動しているのか。
 そんなことを考えている間もコール音は鳴り続ける。もう二十回を超えている。諦めかけたときに、受話器が持ち上がり、電話が繋がった。
「研究部」
 徹夜明けで、たった一人眠りこけていた感じの疲れ切った声だった。三十代半ばくらいの男の声。疲れているということを差し引けば、二十代後半でも通るかもしれない。
「もしもし」
「相羽探偵事務所の笹神と申しますが。お忙しいところ失礼いたします」
「探偵事務所? いったいどういう用件ですか。うちはれっきとした研究所で、探偵さんに調べられることはないですよ」
「いえ。そちらにお勤めの塩村和幸さんのことでお話がありまして」
「ああ。チーフのことですか。そのことでしたら、警察にすべてを任せてあります。推理小説みたいに探偵さんが出てきても、役に立つことはないと思いますが」
 電話の向こうで水を飲むような音が聞こえた。どうやら、気分をはっきりさせるつもりらしい。朦朧とした頭で話されても、あまり収穫はない。相手がそういうきちんとした態度に出ること事態、こちらとしては歓迎すべきことだった。
「仕事探しで、電話をしたわけではありません。塩村さんとわたしどもの事務所は現在契約関係にありまして、そのことでお話を伺いたいと連絡を差し上げたわけです」
「契約関係ですか。塩村がなにか、探偵さんと関わり合いになる理由でもあったのでしょうか」
「京王プラザホテルで製薬業界の研究会があったのをご存じでしょうか」
「ええ。確か今週の月曜日から今日までだったはずです。塩村がうちの研究所の責任者ですから、研究論文を持って出席しました。ただ、塩村があんなことになりましたので、研究会自体が休止状態になりまして。しかし、それと探偵さんがどういう関係になるのでしょうか」
「大変申し上げにくいことですが、わたしどもの事務所では、塩村氏の護衛を引き受けておりました。結果がああいうことになりまして、今更このような電話が出来た義理ではないのですが、依頼料の返還をすることと事件の後始末をしなくてはなりませんので」
「依頼料と言われても」
 男はことばを途切れさせた。ここまで説明して、はっきりした答が返ってこないのは、塩村が探偵を雇ったことは個人的なことだったらしい。わたしは塩村に会った記憶はないが、彼は自分の会社の研究論文を守るために探偵を雇うほど用心深い人間だったのだろうか。少し考えてみたが、頭がずきずきするだけで、どうしても思い出せなかった。
「探偵さんの護衛料というのは、いったい幾らくらいの額になるのですか」
「警察から何も聞いていらっしゃらないのでしょうか」
「しがない研究員ですからね。警察との対応は研究部ではなく、会社の広報が扱っています。そちらの方が仕事の予定に関しても詳しいでしょうし。ただ、研究内容と塩村の交友関係についてはいくつか聞かれたことがあります。研究内容についてはぼくが知っている限りのことを話しましたが、チーフの交友関係となると。同じ職場で働いていて、誰も知らなかったくらいです。だから、襲われたのが女の方と一緒だったと聞かされて、こちらの方が驚いているくらいです」
「一緒にいたのが、彼の恋人だったら、話は簡単なんですが」
「どういうことでしょうか」
「詳しい話をしたいので、こちらから伺うことは出来ませんか。電話で話すより、あなたも塩村氏に起こったことがすっきりとするでしょうし」
「詳しい話ですか」
 迷いが感じられた。いきなり、探偵事務所と名乗るところから電話がかかり、事件について話をしたいといってきている。そんなことを簡単に信じろと言うほうが無理だろう。探偵であるわたしでも信じない。こうして話を聞いてもらえるだけでも、奇跡的なことだった。
「わたしもいきなりこんな電話をかけて、塩村氏の事件の話をして頂けるとは思っていません。こういう理由付けをして、取材をするマスコミがいないとも限りませんからね。不幸なことに、この事件はもう、紙面を賑わすことはないようですが」
「それはそうですが」
「わたしどもで預かっている塩村氏の護衛契約書をファクスしましょう。本人が書かれたものです。あなたも同僚でしょうから、塩村氏の筆跡を見たことがあると思います。それで納得しましたら、折り返し、お電話をください。それで、あなたの責任がどうということはありませんし、他言することはありません。よろしいでしょうか」
「そう言われても。ぼくはただの研究員ですよ。事件のことも詳しいことは知らないし。役に立てるとは思えないのですが」
「構いません。それも含めて、あなたが決めることですから。ただ、一つだけ言っておきたいのは、わたしが塩村氏を襲った犯人を見ているということです。それが誰か、今のところはまったく分かりませんが、このことは調査をする上で非常に重要なことだと思っております」
「それはいったい……」
「わたしが塩村氏と一緒に襲われた女ということです。納得がいきましたでしょうか」
 再び水を飲むような音が聞こえた。自分の直接の上司が襲われるという近しい事件ではあるが、わたしのことばで、その距離は更に縮まったに違いない。電話の向こうの彼は一種の興奮状態にある。それだけははっきりと分かった。
「このことは警察も知っていることなんでしょうか」
「わたしがまず犯人じゃないかと疑われました。そして、証言できることはすべて証言しました。それで犯人が捕まらないのは犯人が捜査圏外にいるか、わたしの証言が間違っているということでしょう。わたしどもの事務所では、犯人を見付けることも含めて、後始末をする必要があるわけです」
「一応事情は分かりました。塩村の契約書をファクスしてください。同僚と相談して、協力するかしないか決めますから」
「失礼ですが、宛先はどのようにすれば」
「中嶋と。中央の中に、山偏の島です」
「分かりました。わたしは塩村氏の依頼を担当いたしました笹神といいます。電話番号は〇三の……」
 わたしは〇三に続く八桁の番号を言い、中嶋が書き取るのを待った。それからもう一度確認のために、相羽探偵事務所の名前とわたしの名前を言い、電話を切った。
「名演技だった。お前がこれほどていねいに話をするのを初めて聞いた」
 田中が言うのを聞き流し、わたしはファイルから塩村の契約書を抜き出して、ファクスのところに持っていった。隣のコピー機でコピーを取り、それに大きくマジックで『J&Wメディカル・ジャパン 中嶋様』と書き殴り、文字面を下にして、ファクスにセットした。それから、塩村の名刺のファクス番号にボタンを押す。なぜだか分からないが、こういうことは体が覚えているようだった。
 一枚の紙が機械を通ると、何回か機械音が鳴り、最後に大きくピーという音がして、ファクスは終わった。
 わたしは契約書とコピーと名刺をまとめて持つと、自分の机に戻り、すべての書類をファイルに戻した。
「笹神。そいつに会いにいくなら、俺に護衛をさせろ。特別に只にしてやるから」
「清家。護衛は俺の専門だ。年中どじばかり踏んでるお前に、大事な所員の護衛は任せられない」
 わたしは二人の言い合いを残して、トイレに立った。用を済まして、鏡を見る。わたしの頭は包帯でぐるぐる巻きにされていることは分かっている。容姿も十人並みというわけにはいかない。悔しいことだが、わたしはいわゆる美人とは程遠い位置にあった。それは病院の鏡を見てとっくに知っていたことだ。それでも、こうして気を使ってくれる仲間がいることは嬉しいことだった。しかし、わたしの今の状態を考えれば護衛してもらう人間は決まっていた。出来ることなら目立ちたくはなかった。
 自分の机に戻り、まだ続いている二人の言い合いをBGMに、資料を読んだ。知りたいことはこの資料では不十分なことは分かっている。わたしがプロである以上、必要なことは聞いていると思う。記憶がないわたしの頭が悪いだけだ。どうにも前に進めなかった。一つ思いついては、それを切り捨て、それを蒸し返す。そんな繰り返しだった。
「笹神」
 清家がわたしに救いを求めるようにわたしに呼びかけたとき、目の前の電話が鳴った。素早く受話器を取り、耳に押し当てる。口が自然に動いた。
「はい。相羽探偵事務所」
「中嶋です」
「中嶋さまですか」
「J&Wメディカル・ジャパンの。塩村の下で働いていた研究員です。ファクスは意見しました。同僚とも相談しましたが、塩村の書いたものに間違いはなさそうですね」
「そうですか。それで、中嶋さんが出した結論というのは。本社の広報と同じく、警察に任せるということでしょうか」
「そういうことも考えたのですが。塩村の論文のこともありますし、一度、お話を伺った方がいいと考えています。早速で悪いのですが、今日これからお会いするというのはいかがでしょう」
「これからですか。確か、研究所は八王子の方でしたね」
「ええ。八王子市大塚。中央大学のすぐ傍です。研究施設は公開していませんから、直接来て頂くわけにはいきませんが」
「では中央大学のキャンパスで待ち合わせということでしょうか」
「そういうわけにはいかないでしょう。ぼくが新宿に伺います。大学は新宿でしたし、研究会で何回か新宿にいったことがあります。ある程度の場所でしたら、迷うことはないと思います」
 少し考え、待ち合わせの場所をいくつか思い起してみた。こういうところには記憶障害が出てこない。不思議なことだったが、生活に関係のない記憶喪失というものもあるのだろう。衝撃が強すぎて、事件に関係するものと自分の仕事に関するものをすべて落としてしまったのかもしれない。そういえば、都庁を見たとたん、わたしのいる場所は新宿だと思い浮かんだのだった。
 話を元に戻そう。中嶋との待ち合わせの場所だった。
 八王子ということはおそらくJRだろう。違うかもしれないが、それを前提に考える。アルタスタジオ、ルミネ前、都庁前、小田急ハルク前のカリヨン橋。西口から出られるのなら、カリヨン橋が一番近い。中嶋はどう考えているのだろうか。
「新宿のどの辺りを覚えていらっしゃいますか。具体的な場所でなくても結構ですが」
「そうですね。小田急を使いますから、西口の方が分かりやすいと思います。確か、駅前に大きな橋があった気がしますが」
「小田急ですか。だったら、カリヨン橋ですね。西口からいく場合、エスカレーターがありますから、その正面でどうでしょうか。わたしは頭に包帯を巻いていて、ヤンキースの帽子を被っていますからすぐに分かると思いますが」
「分かると思います。こちらはいったん乗り換えがありますから、二時間はかかると思いますが、それでも構いませんか」
「気にしないでください。わたしどもの事務所は新宿駅のすぐ近くです。時間を潰すことには不自由しませんから」
「それを聞いて安心しました。これから急いでいきますので、二時間後ということで」
 わたしは今の時間を三時と確認し、二時間後と呟いて、電話を切った。これで塩村のしていた仕事が少しは分かりそうだった。
「約束を取り付けたか」
「ああ。田中だったな。悪いが付き合ってくれ。あんたの方が安心出来そうだ」
「笹神。俺じゃあ、頼りにならないということか」
「そうじゃない。清家はわたしが見てもいい顔だと思う。そんな人間とわたしのような女が歩いていては、人目を惹くだろう。あんまり、目立ちたくはない」
 田中と清家は顔を見合わせ、すぐに清家が吹き出した。わたしの言った意味が伝わったがどうかは疑問だったが、清家は納得したようだった。対照的に田中は憮然としている。わたしもこんな言い方はしたくなかったが、素早く、決着をつけてしまうには仕方がないことだった。
「笹神」
「気にするな。わたしのことはわたしがよく知っている。容姿のことなど気にしないさ。探偵という職業は顔の善し悪しじゃないだろう。もしそうだったら、わたしのところに警官があんなに押しかけるわけがない。事件の目撃者だったとしてもな」
「確かにその通りだな。目立たないという意見には俺も賛成だ。俺を選んだ理由はともかくとして」
「それなら決まりだ。清家、悪いが外してくれ。田中と打ち合せに入りたい」
 清家は不満そうな顔をしたが、意味は通ったのだろう。おとなしくサマージャケットを引っ掛けて、わたしの肩をぽんと叩いた。
「適当にぶらぶらしてくる。なんか買ってくるものがあったら言ってくれ。今なら気分がいいから、多少の無理はきいてやる」
「そうだな。赤ラークを買ってきてくれ。今すぐでなくてもいい。ついででいい。清家が帰ってくる前に対象に会いに出ているということもあるしな」
「了解」
 とびきりの笑顔というのだろう。わたしには眩しすぎる笑顔を見せて、清家は事務所から出ていった。
「それで。お前は対象に何を聞くつもりだ。まさか、これから会う彼が犯人だと思っているわけではあるまい」
「それは会ってみないことには分からない。わたしの記憶を揺さ振るかもしれないし。とりあえずは会ってからだ」
「俺は何をしたらいい。一応調査方針を聞いておきたい。以前のお前の動き方なら知っているつもりだが、記憶を失っても完璧に動けるのか、俺には分からないからな」
 わたしの調査方針か。
 そのことについて詳しく知りたいとは思ったが、口に出しては言わなかった。加佐村や西垣に言われたことを思い出したのだ。「探偵であることに凝り固まっている」と。烏丸もそんなことを言っていたような気がする。今わたしが以前のわたしのことを聞けば、わたしはそれに縛られそうな気がしたのだ。そんな風になるくらいだったら、今の自分のやり方を押し進める。その方が、わたし自身を納得させられるはずだった。
「一応、対象の意思を尊重する。これが基本方針だ。どうやら、わたしには相手を怒らせる癖があるみたいだからな。暴走気味になったら、止めてくれ。わたしに関してはそれでいい」
「暴走するか。その癖は分かっている。長い付き合いだからな。そうなったら、割って入ってやる。安心しろ」
「それと。わたしが聞いておきたいのは塩村の研究内容のことだ。向こうも企業だから、業務秘密と逃げられるかもしれない。もちろん、出来るだけそう言うことにならないように努力はする。しかし、そのための手段を、今のところ、わたしは持っていない。援護してくれ」
「ああ。そういうことなら簡単なことだ。幾らでも方法はある。任せておけ」
 わたしは一つうなずき、赤い箱から一本銜えて、ライターを擦った。気持ちいい刺激が体中に広がっていった。
「それだけ分かってれば、まともに相手と話は出来る。期待している」
 田中はうなずいただけだった。
 再び時計を見ると、もう午後三時を差している。ずいぶんと打ち合せにかかったものだった。それでも、まだ待ち合わせには一時間以上も時間があったのだが。
 わたしは銜え煙草のまま、給湯室に入り、三人分の紙コップを出した。専用のマグカップがあるのだろうが、わたしには分かろうはずもない。二人には悪いが客用の紙コップで我慢してもらうことにする。横一列に並べ、棚にあったインスタントコーヒーを入れて、ポットの湯を注いだ。微かだがいい匂いがする。紙コップをトレイに載せ、灰をシンクタンクに落とした。
 トレイを持ち、事務所に戻る。所長には悪いが、わたし、田中と手近なところから紙コップを置き、最後に所長のところにいった。所長は小さな体をより小さくして、わたしの知らない調査の報告書を書いていた。
「コーヒーです」
「気を使わなくてもいいんだぞ」
「いえ。暇つぶしです。だから、こんな格好で」
 煙草の灰を所長の灰皿に落とす。
「そうか。その方が、笹神らしいな。これから調査にでもいくのか」
「はい。田中と一緒に。わたしの知らないことは人に聞かなければなりませんから。出来るならば、犯人を教えてもらえれば助かると思っています」
「楽することはお前の感覚にはなかったはずだが」
「そうかもしれません。しかし、こんな宙ぶらりんのままではそんな考えも浮かぶものです。それが、探偵として失格というのなら。わたしには調査をする資格はありません」
「そうだったな。心配はいらない。お前の思うままにやってこい。記憶になくても、体は覚えている。いずれ、お前の記憶も呼び戻してくれるさ」
「覚えておきます」
「記憶を補強するためにメモを必ず取っておけ。いつ記憶が戻って、事件当時まで引き戻されるか分からないからな」
「分かりました。約束まで少し時間がある舛から、メモを作っておきます。田中がついてくれるそうですから、わたしに危険はないと思いますが。もし今度襲われるようなことがあれば、J&Wメディカル・ジャパンを疑ってください。後のことはよろしくお願いします」
「いいだろう」
「それでは仕事に戻ります」
 所長に言うことも済んだ。後は自分の仕事をするだけだ。わたしは煙草を灰皿に押しつけ、仕事をするべく、自分の机に戻っていった。そこには田中が本当に真剣な顔で待っていた。
SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送