8

 翌日。一晩考え、わたしは退院した方がいいとの結論に辿り着いた。わたし個人の贔屓目ではない。ましてや希望的観測でもない。それであれば西垣に対する説得力は何もないし、外に調査に出たところで何も出来ることはない。この結論を導きだした理由はただ一つ。被害者であるわたしにしか出来ないことがあるからだ。それは、怪我を負って病院に入っているわたしが退院することで犯人に警戒感を抱かせることだった。犯人は必ずわたしたちの動きをみているとわたしは確信していた。警察の捜査のために囮になるつもりはまったくないが、結果としてそうなることは仕方のないことだった。
 そうと決まれば朝食前にすぐにでもすることがあった。迎えにきてもらう人間を頼むことだ。わたしはプリントシャツとジーンズに着替え、スリッパからフラットシューズに履き替えて、迷わず病室から外に出た。そこにはわたしの見張り役、大村巡査がつまらなそうに座っていた。
「大村。電話を貸してもらえないか。連絡を取りたいところがある」
 加佐村からわたしのことは聞かされているのだろう。それともわたしのことに関しては加佐村が全責任を取るといったのだろうか。大村は別に文句を言うわけでもなく、携帯電話を貸してくれた。昨日も感じたことだが、電話は玩具のようで頼りなかった。
 それでもちゃんと電話としては機能する。わたしは大村の見ている前で八桁の番号をプッシュし、繋がるのを待った。大村が興味深そうに見ている。わたしはからから視線をずらし、コール音を数えた。一回、二回。八回まで数えたときにようやく繋がった。
「相羽探偵事務所」
 所長の声ではなかった。田中か清家か。それともまだ名前を聞かされていない誰かか。わたしは突然電話を切ってしまいたい欲求に駆られ、それをようやくのことで思い止まった。よく考えればまだ朝食前の時間。午前七時にもなっていない。所長が事務所にいなくてもおかしくはなかった。
「もしもし。相羽探偵事務所ですが」
「笹神だが。所長はいるか」
「なんだ。身内か。笹神、埋もれた記憶は戻ったか。まったくお前らしくないどじを踏んだもんだ」
「記憶が戻ったわけではない。わたしは自分の記憶を取り戻すために電話したんだ。所長にわたしの身元保証人になってもらいたい。誰だか知らないが、所長が出社したら、笹神がそう言っていたと伝えてくれ」
「待てよ。俺の名前まで忘れちまったのか。あんなに面倒見てやったのに」
「そうかもしれない。悪いな。まったく覚えていないんだ。この借りは記憶が戻ったときにまとめて返す。その時のためにあんたの名前だけ教えてくれ。出来るだけ覚えるように努力する」
「本当に記憶をなくしたみたいだな。まったく。清家だよ。お前の一期上の。まあ、これは言っても仕方のないことだ。所長に用事を伝えればいいんだな」
「ああ。出来れば、すぐに病院にきてくれとも。わたしが事件を調査するには所長の力が必要なんだ」
「まったく。記憶がなくても代わり映えのしない奴だな。責任を持って伝えといてやる。だから早く記憶を取り戻せ。中途半端なお前じゃ、まともな仕事は期待できないから」
「分かった。心に刻んでおく」
 電話を切る。同時に清家の名前と声の特徴を頭に刻み込んだ。彼にはこれで借りが出来るが、いずれ返すときに名前が一致しないのでは困る。記憶が戻っていれば問題はないのだろうが、最悪の場合はこのまま記憶が戻らないことも考えられた。
 視線を戻すと、大村がまだわたしをじっと見ていた。わたしは電話に視線を落とし、これ以上どこにもかけるところがないことに思い当って、携帯を大村に差し出した。彼は無造作に受け取って、制服のポケットに突っ込んだ。わたしはそれを見ながら、もしここで大村を襲えば、わたしは好きなものを奪えるのだろうかと馬鹿なことを考えていた。
「用事は終わりましたでしょうか」
「ああ。あんたのおかげだ。感謝する」
「そう言われると困りますが。自分は警視の言う通りに行動しているだけですから」
「そうか。それならもう一つ頼みがある。聞いてもらえるか」
「自分に出来ることであれば」
「多分、午前中のうちに相羽と名乗る男が病院を訪ねてくるはずだ。彼が誰にも邪魔されず、この病室までこられるように取りはかってくれ。連絡がたいへんだろうがよろしく頼む」
 大村は黙ってうなずいた。どうやらこのことは、昨日のうちに加佐村から指示があったことらしかった。
 用事を済ましてしまって、わたしは大村にもう一つ用事があることを思い出した。エレベーターホールをうろうろする小柄な病院に似合わない男のことだ。彼のことを大村に話してから丸一日が経っている。優秀な警官であれば、とっくに調べはついているはずだった。後で聞くことも出来たが、わたしは好奇心を抑えることが出来なかった。
「大村」
「他にも何か」
「昨日聞いたことだ。例の男のことは何か分かったか」
 大村は少し考え、なにか言おうとして、止めた。わたしはそれを見て、彼が実直な外勤の警官であることを感じ取った。彼には加佐村の許可した行動しか許されていない。それでもなにか言おうとしたのは、わたしがこの事件を個人的に調査をすることを加佐村から聞いていたからに違いなかった。
「何も分からなかったのか」
「その点については警視から直接聞いてください。笹神さんが西垣先生と話をなされるときに立ち合うはずですから」
「分かった。そうしよう」
 今度こそ、わたしには何もすることがなくなった。遠くから朝食のワゴンを運ぶ音も聞こえてくる。朝飯前にやれることはここまでのようだった。
 わたしは病室に戻り、服を着たままベッドに腰かけた。それからはいつものルーチンワークだった。山村が運んできた朝食を摂り、後頭部の傷の消毒と加療を受けた。山村に着替えていることで少し聞かれたが、警察と一緒に外に出かけることになるかもしれないからと誤魔化しておいた。山村は納得していないようだったが、それ以上は何も言わず、病室から出ていった。その頃には窓の外の蝉が鳴き始めていた。
 わたしは薬のせいで少し痛む頭を軽く左手で押さえ、天井を見上げた。昨日確かに朝食後と言ったはずだが、加佐村も西垣も姿をみせようとはしなかった。来るはずの人間を待つことほどつらいことはない。約束したことがどうとか言っているわけではない。それ以前のこと。わたしは事実から逃げることが出来ない。それがわたしを苦しめるのだ。
 時間潰しのために、いや、自分のイライラを抑えるために山村が持ってきた朝刊を読み始めた。一面をざっと見て、大きな記事が載っていないことを確かめると、そのまま引っ繰り返す。テレビ欄を一枚めくったところがわたしの気持ちを落ち着かせてくれるところだった。塩村が襲われた事件のことが書いてあるからではない。事件発生から六日も経ってしまえば、解決しない限り、記事にはならないものだ。そんなことは分かっていた。それでもこのページを見るのは自分自身の好奇心を満たすため。日替わりで紙面を賑わせている事件の背景を想像していく。探偵という職業を意識しているわけではないが、この作業はずっと続けてきたもののようにわたしに馴染んでいた。
 今日書かれていることでわたしの目を惹いたのはウイルス性の食中毒の記事だった。病原性大腸菌が関係したものだったが、どこからも原因菌が発見されないということで問題になっていた。いくつかの特定の食材が問題視されていたが、決定力には欠けていた。菌が見つからないのだから仕方がないが、わたしには研究者の調査の仕方が凝り固まっているように思えた。こういうことを素人のわたしが邪推することは失礼なことになるが、食材に病原性大腸菌が存在するのではなく、体内で大腸菌が変化する可能性も考えていいのではないかと思う。もちろん専門家にはそれを即座に否定する意見があるだろう。わたしの考えがまったく的外れなこともありうる。むしろその確率の方が高い。しかし、可能性は可能性として調べてみることは大切なことだった。こんな推理を専門家である塩村に話してみたら、彼はどんな反応を示すだろう。一笑に付しただろうか。もし、今日まで彼とわたしが無事だったら、こんな会話をしていたのだろうか。
 新聞を置き、いつのまにかそんなことを考えていた。やはり心の底で気になるのはわたしが守れなかった塩村のことなのだろうか。事件を調査することと、過去を気にすることは切り離したつもりだったのにうまくいっていない。凝り固まっているのはウイルスの研究者だけでなく、わたしもそうなのかもしれない。気をつけなければならない。
 小さく息を吐き、ポケットから赤い箱を取り出した。一本銜えて、ライターを擦る。煙を吸い込み、肺を刺激する。本当の気持ちを言えば直接脳を刺激して、記憶を引き摺り出したいところだが、これくらいでその願いがかなうのならこんなに苦労することはないはずだった。
 時計を見ると十時を過ぎている。この時間なら所長にもわたしの伝言は確実に伝わっていることだろう。わたしは堪らなくなってナースコールのボタンを押した。
 煙草を一本吸い終わった頃、病室のドアが開いた。山村が来るものだと思っていたが、顔を見せたのは河端だった。意外だったが、看護婦には看護婦の都合があるのだろう。話が通じるのならどちらでも構わなかった。
「笹神さん、どうかしましたか。頭でも痛むのですか」
「いや。西垣と朝食後に話をする約束をしていた。それが一向に姿を見せない。どうなっているか確かめてくれないか」
「西垣先生なら、お客さまとお会いになっています。その用事が済めば、この病室にいらっしゃると思いますが」
「患者との約束を後回しにするほどのことなのか。それでは治療の信頼関係を築くことが出来ないだろう」
 河端は困ったような顔をして、わたしをじっと見つめた。西垣のことは彼女のせいではないのだろうが、彼女なりにどちらも傷つけないことばを探しているようだった。
 その顔を見ていて、一つだけ聞くことを思い出した。初めてナースコールを押して、彼女がこの部屋に入ってきたときのことだ。あの時は何も気付かなかったが、よく考えれば引っかかる。西垣にも同じことを聞いたが、納得しているわけではなかった。彼の説明は強引すぎて後からこじつけたような気がしたのだ。
「笹神さん」
「一つ聞きたいことがある。わたしが初めてあんたを呼んだとき、あんたはわたしのことを記憶をなくしているといった。ご丁寧にわたしの名前を教えてくれて、字面まで教えてくれた」
「それがなにか」
「わたしの記憶はあの会話の少し前から始まっている。しかも、事件が起こってから丸一日しか経っていない。わたしが記憶喪失だと診断された理由はなんだ」
 河端は何も答えない。じっとわたしを見つめているだけだ。困ったような表情から、わたしのことを本当に心配している表情に。笑顔はとっくに消えていた。
「西垣がここに来る前にどうしても聞きておきたい。あんたも勝手なことは言えないのかもしれないが、わたしも探偵として行動するために好奇心を充たしておきたいんだ」
「記憶喪失のことは先生から聞いていましたから。笹神さんの意識が戻って、不安そうな素振りを見せたら、まず状況と名前を説明するように言われいていました。たまたま私が担当になりましたけど、山村さんがあの場に立ち合っていても同じことを説明したと思います。私達の仕事はまず患者さんの不安を取り除くことですから」
「西垣から聞いていたということか」
「はい。後頭部の怪我の治療が終わった後、笹神さんはいったん意識を取り戻したそうです。その時に記憶の混濁が見られるということで。もしかしたら、記憶喪失かもしれないと。だから、もし不安げな様子だったら、きちんとしたことを説明するように言われていました。私はまだキャリアが浅いですから、気の回らないことがあったと思いますが。それが何か気になることなんですか」
「少しだけだ。まあ、あんたの説明で充分納得がいった。わたしがわたし自身のことが分からないとは。記憶喪失というのは厄介なものだ」
「運がよかったとも言えるんですよ。後頭部を殴られて、傷と記憶喪失だけで済んで。打ち所が悪ければ、塩村さんのようになったいたし、もっとひどいことになっていたかもしれないのですから」
 死んでいたか。頭の中でことばにしても実感が湧かない。死ぬという意味が分からないわけではない。人生が終わるということ。自分で自分の生き方が出来なくなるということだ。それはそれで困ることだが、具体的にわたしが死んでどんなことになるのかは想像できなかった。
「でも、もう大丈夫ですよ。CTスキャンの結果も異常なしでしたし、怪我の方も今のところ化膿はしていません。このまま治療を続けていけば、記憶喪失はともかくとして、怪我は完全に治りますよ」
「それを聞いて安心した。生きていられるということはわたしの失敗を取り戻すことが出来るということだ。塩村が死んでいたら、わたしは一生それを悔いながら生きていかなければならないだろうが。今はその境にある。わたしが行動することで、塩村を今以上の危険から遠ざけることが出来るなら、それが探偵の仕事だと思う」
「難しいことですね」
「西垣とはそういう話をするつもりで約束をした。わたしの心配をしてくれるあんたには悪いが、わたしは退院してこの事件を調査するつもりだ。今より危険なめ似合う可能性もある。しかし、それが今のわたしに出来る塩村への義務を果たすことだと考えている」
「それほど自分を追い詰めなくてもいいんじゃないですか。襲われたことは確かに不幸なことでしたけれど、塩村さんも笹神さんもまだ生きています。犯人を捕まえることは警察に任せて、怪我を治すことに専念されてはどうですか」
「もう決めたことだ。わたしは不器用だからこんな生き方しか出来ない。西垣の話もそろそろ終わっているだろう。悪いが呼んできてもらえないか」
 これ以上わたしを説得することは無理だと思ったのだろう。河端は力のない笑顔を見せて、ドアの方に振り返った。その時、そのドアが大きく開けられた。入ってきたのは西垣と加佐村とわたしの知らない老年の小柄な男だった。
「先生。笹神さんが」
「分かっている。河端くん。これからは大切な話し合いだ。ここはいいから、仕事に戻ってほしい」
 固くなった雰囲気を察したのだろう。河端はわたしと訪問者の三人にそれぞれ軽く礼をして、病室から出ていった。
「笹神。ずいぶんと大変な目にあったな。来てやりたかったんだが」
 その声を聞いて、この知らない小柄な男が相羽所長であることに気が付いた。少し頭を回転させれば、すぐに分かることではある。我ながら間抜けなことだった。
「わたしの方こそ、心配をかけて。仕事を引き受けておきながら途中で投げ出すような結果になり、申し訳ありませんでした」
「それはいい。それよりは、これからのことを話し合おう。そのために私も加佐村警視もここに来たんだから」
 所長のことばに、西垣がうなずいた。どうやら、わたしをどう扱うかについて三人で話し合いを行なっていたようだった。
「これからのことですか」
「そうだ。話し合いの結果、私が笹神を保護するという形で西垣先生の退院許可をもらった。これから外で行動することになる。その段取りを決めておく必要があるだろう」
「わたしの自由には動かしてもらえないわけですね」
「どこにいくつもりだ。記憶が戻って調査の当てでもできたか」
 加佐村が不機嫌そうに言い捨て、ハイライトに火を点けた。めずらしく、自分のマッチを使って。わたしがこの男に会って以来、おそらくは初めてのことだった。
「あんたに言われることじゃない。わたしは所長と話しているんだ」
「笹神。そんな風に言うもんじゃない。探偵という職業は日本では権限がかなり限られてくる。実際、我々には逮捕権もないし、それどころか、一般市民から話を聞くことすらままならない。警察には進んで話すことでも、探偵には金を要求する。そんな中で警察が捜査している事件を調査するということはひどく難しいことだ。そのためには、警察と話し合いを行ない、我々の出来ることを見付けださなければならない。つまりは妥協点だ。分かるな」
 所長はわたしの状況を分かりやすく噛み砕いて話してくれる。本当の意味で言うなら、探偵である前に被害者であるわたしは記憶が戻ったときに証人になる以外、警察に協力する術はないのだ。それを加佐村との話し合いでわたしが動けるところを作ってくれようとしている。ありがたいことだった。
「それで、わたしは何を許されるんだ」
「好きなことをすればいいさ。お前の護衛には相羽のところの調査員がつくという話だ。いくら間が抜けているといっても、プロの探偵だ。二度と同じ間違いを犯すこともあるまい」
 好きなこと。
 加佐村にそう言われてみて、わたしは具体的に何をすべきなのか分からないことに気が付いた。
 いや。そうじゃない。
 話を聞かなければならない人間はいる。わたしのつけていた業務日誌に書かれていた人間だ。塩村が会った研究者。そして、最後のページに印されていた『対象からのリクエスト』。わたしが調査しなければならないことは山のようにある。塩村がいったい何を研究していたのか。それは襲われるべき理由があるものなのか。危険を冒してまで会わなくてはならない人間とはいったい誰だったのか。わたしはそれを確かめなければならない。
 しかし、わたしは一介の探偵に過ぎない。警察はわたしの業務日誌を捜査の根拠として徹底的に聞き込みを行なったはずだ。それを今更蒸し返してどうなるというのか。わたしが塩村と一緒にいた人間だからというのは探偵として聞き込みを行なう理由にならない。事件は警察の管轄であり、その専門家が靴をすり減らして収集した証言を持ってしても犯人を挙げることは出来ないのだ。それは彼らにも分かっている。そのことで充分に不愉快な思いもしたはずだ。そこにわたしが話を聞きにいったところで、彼らはわたしを塩村を守れなかった探偵としか見ないだろう。それではわたしは真実に辿り着くことは出来ないのだ。
 事件を解決するにはいくつものルートがある。どのルートを通っても頂上に辿り着ければそれでいいという考え方もあるだろう。わたしもそれで構わないと思う。事実、警察はその方法を取っている。
「何か不満か」
 首を振る。不満などあろうはずもない。ただ、わたしには選択できるルートが非常に少ないということだ。話を聞くことは出来る。塩村の研究について知ることも可能だろう。それを伝っていけば、『対象からのリクエスト』に会うことも出来るかもしれない。それは分かっている。問題なのはすべてを警察とは違ったルートを辿らなけらばならないということだ。そうでなければ、この犯人を見付けだすことは出来ない。選択の余地がないというのはそういうことだ。
「不満でないなら、何を考え込んでいる」
「これから行動すること。今、退院手続きを取られて、病院から出ていった場合、どこから手をつけたらいいのか。そんなことだ」
「簡単なことだろう。基本通り、聞き込みから始めたらいい。そのための資料も渡してあるはずだ」
 わたしはむっとした顔をしたのだろう。加佐村は再び不機嫌そうな表情になった。イライラしたように灰を落とす。
「何を考えている」
「加佐村。わたしを道化にするつもりか。それとも警察の能力を疑っているのか。素人の見方というものはこの場合ありえない。あるのはプロが見た事実だけだ。そんなことは身に染みて分かっていることだろう」
「お前は退院したいと言った。真実を確かめるために行動したいとも。確かに警察はありとあらゆる面から調べている。塩村の交遊関係から、研究内容、会社での位置関係まで、調べることができることはすべて調べた。その結果として、塩村は我々の知らない人間と接触したという結論に達した。そのことを考えれば、お前が蒸し返したところで何も変わりはしないだろう。しかし、お前は犯人の顔を見ている。記憶にないにしてもだ。そのお前が動き回れば、相手を動揺させることが出来るはずだ。違うか」
「そういうことか」
 加佐村が考えていたことは、わたしが考えていたことと同じだった。わたしが動くことで警戒感を持つ人間がいる。底でわたしの側と警察側とで協力してその人物を追い詰めることが出来れば。加害者とそれを仕組んだ人間を引き摺りだすことも出来る。
「同じような思考をする」
「笹神さん。警察の方はあなたを囮にしようと考えているんです。怪我も充分に治っていないあなたを。私はまだ正式に退院許可を出したわけではない。こういうことを行なうことは反対だからです。加佐村さんからはあなたの記憶を取り戻すことが一番の方法だと聞かされています。それなら、カウンセリングでも充分に目的を達することが出来ます。あなたがどうしても街に出るというのなら止めはしませんが、安全な方法もあるということを心に止めておいてください」
「加佐村。さっき、警察はすべてのことを調べたといったな。だったら、聞きたいことがある。塩村の専門はウイルス学だった。そのことについては調べたのか」
「当然だ。彼の専門はウイルス感染症の研究だった」
「何の感染症だ」
「そんなことを聞いてどうする」
 煙草を強引に灰皿に捻込み、加佐村はより一層不機嫌な声を出した。わたしを試しているわけでもない。本当は間抜けな探偵を捜査に使うのは気が進まないとでも思っているようだった。それでも、わたしはその問いに応えなければならない。意識がない塩村のために。それよりも、まず自分のために。
「わたしを動かしてみたいのだろう。駒にされるのも分かっている。だが、それでもわたしは自分で動きたいんだ。そのための情報をくれても罰は当たるまい。犯人は塩村の研究論文が目的だったんだから、その内容を知りたいと思うのは当然のことだろう」
「そんなことを知ってどうするつもりだと聞いている」
「もちろん、塩村の医療プロジェクトチームに聞き込みにいくさ。責められるのは覚悟の上で。それから、塩村の研究に関係ある人間を片っ端から当たっていく。そうすれば、正解に近付けなくても、相手を警戒させることは出来るだろう」
「その件については警官が調べたことだ。これ以上のことは出てこない。お前の言った通り、素人の見解というものが通用する隙間はどこにもない」
 わたしは加佐村のことばを聞き流し、自分の煙草を銜えて、ライターを擦った。赤い箱はテーブルの上に戻し、ライターも重ねて置く。それを見て、所長と加佐村がそれぞれの煙草を出した。所長は両切りピースの紺の小さな箱、加佐村はハイライト。二人とも自分の火を近付けた。一人立っていた西垣が、ベッドを大きく回り込み、窓を開けた。緩やかな風が紫煙を棚引かせていった。
「わたしにはわたしの考えがある。それは多分、警官とは違ったやり方だろう。わたしが会っているはずの研究者と会うよりもずいぶんと実のある調査になると思うが」
「そのために研究内容など知っても仕方があるまい。塩村の論文を手に入れる必要がある人間をお前は知らないのだから」
「あんたには分かっているというのか」
 加佐村は苦虫を噛み潰したような顔をしただけで、何も言わなかった。しかし、その態度自体が明白な否定を表していた。
「分かっていないことなら、わたしか見付ける可能性もある。そのことは否定できないだろう」
「笹神。あんまり図に乗るんじゃねえぞ。お前は確かに警察にとって重要な証人だ。そのことは認めてやる。だが、今のお前じゃ、糞の役にも立ちはしない。そのお前に対して、記憶を取り戻すきっかけを与えてやろうというんだ。だったらおとなしく、警察の言うことを聞いていればいいだろう」
「そのことはありがたいと思っているさ。感謝している。何なら、頭を下げてもいいと思っている。警察のやり方もよく分かっているつもりだ。だからこそ。わたしのやり方でこの事件を調査させてくれないか。わたし一人で調査するとは言わない。出来ることなら所長についてもらうし、それが出来ないのなら探偵事務所の同僚についてもらう。わたしはわたしの仕事をすることが記憶を取り戻す一番の近道だと考えているんだ」
 所長がわたしの肩に手を置いた。小さくふしくれだった手だったが、たったそれだけのことが、わたしのことを支持してくれたような気がした。
「加佐村」
「いいだろう。好きなようにやればいい。しかし、俺の責任もある。警察の監視をつけさせてもらう。それがお前に自由な行動を許す条件だ」
「烏丸か」
「奴を割くことは出来ない。警視庁から来たお前の知らない人間だ。奴らにはお前にあっても無視するように指示しておく。お前も気にする必要はない」
「犯人に辿り着くまでは、顔さえ分からないというわけか。それは楽しみなことだな」
「それだけ余裕があるのなら大丈夫だ。後はお前の思う通りやればいい。これ以上、俺がここにいる必要はないな」
 加佐村は灰皿に煙草を押し込み、立ち上がった。もうこちらを見ようともしない。わたしとの話し合いは終わりのつもりらしい。しかし、わたしにはまだ加佐村に聞くことがあった。
「一つだけ聞くことが残っている。出ていくのなら、わたしの質問に答えてからにしてくれないか」
 わたしのことばなど聞こえなかったように加佐村は背中を向けたまま、病室を出ようとした。彼の手がドアのノブにかかったとき、思わずわたしは叫んでいた。「加佐村」と。おかげで頭がずきずきと痛んだ。
「お前、何様のつもりだ。俺は話は終わったと言っている。その上でお前の好きなようにさせた。これ以上何が不満だ」
「大村に頼んでいたことだ。エレベーターホールの小柄な男。彼の正体を知りたい。大村は加佐村に聞けと話していた」
 加佐村は頭に手をやり、少し考える振りをして、わたしの顔をじっと見つめていた。こんなことが昔にもあったような気がしたが、いつのことだかは思い出せなかった。
「あのこそ泥のことか。奴はこの事件には関係ない。あいつは病院内をうろつき回って、入院患者から小金を巻き上げていただけだ。親切なボランティア青年を装ってな。今頃は新宿署で絞られていることだろう。せっかく目をつけてもらったのに悪いが、奴はこの事件にはまったく関係がない」
「そうか。それだけ分かればいい。忙しいところ、呼び止めて悪かった」
 わたしにしてみれば精一杯の謝罪のつもりだったが、加佐村はそうは受け取らなかったようだ。不機嫌な顔をより不機嫌にして黙ったまま部屋から出ていった。
 同時に所長の手がわたしの肩から離れた。見上げると所長も立ち上がっていた。
「笹神。覚悟は出来たか」
「はい。充分に。この事件はわたしが調査しなければ何も動かないような気がします。記憶を失った身で何が出来るか分かりませんが精一杯やってみたいと思っています」
「そうか。分かった。先生、聞いた通りだ。こいつの退院手続きを進めてほしい」
「止めても無駄のようですね。私は今でも彼女を外に出すことに反対なのですが」
「彼女の望むことですから。わがままな患者に見えるでしょうが、この私に免じて許してやってください」
 西垣はすぐには答えず少し考え、その間にわたしと所長は煙草を消した。それを見て、西垣はすべてを決めたようだった。
「いいでしょう。好きなようになさってください。元々は私が彼女の好奇心に火を点けてしまったようなものですからね。あまり強いことも言えません。ただ、二つだけ条件を守ってください。重要なことです」
「なんでしょうか」
「毎日傷の消毒と加療にくること。それから毎週月曜日には私のカウンセリングを受けることです」
「分かりました。守らせましょう。笹神、それでいいな」
 わたしはうなずいた。
「これでよろしいですか」
「文句はありません。それでは退院手続きを始めましょうか。簡単なことです。私が許可書を出しますから、手続き書類を書いてもらえばいい。それは相羽さんが代わりにやられても問題はないと思います。それが澄めば、笹神さんは外に出られるというわけです」
 わたしはもう一度うなずいた。これで、わたしの枷は外された。これで自由に行動出来る。わたしの考えは退院のことは飛び越え、まずやらなければならないこと。J&Wメディカル・ジャパンのプロジェクトチームの人間に会うことを考えていた。
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