7

 大村と河端にもう一度頭を下げると、着替えるためにわたしは部屋に戻った。カーディガンとパジャマを脱ぎ、濃いグリーンの半袖シャツと白のコットンパンツを身につけた。ウエストのところをベルトで締め、出かけることになった場合のために昨日のサマージャケットをベッドの上に放り出した。煙草とライターをシャツのポケットに入れ直し、パイプ椅子ではなくベッドに腰掛けた。椅子というものはどんなときでも、わたしを訪ねてくる客のためにあけておくべきだった。
 時計を見て、今が午後五時であることを確かめる。すぐ来ると加佐村は言ったが、この病院には西垣がいる。二人の意見が合わない限りわたしの病室にくることはない。わたしというただでさえ生意気な探偵が事件の証人だというのに、その担当医が西垣とあっては加佐村といえども苦労するだろう。他人事ながら気の毒に思えた。
 だからといって、同情して無制限に協力するわけではない。事情も知らないで何もかも喋っていては最後には自分が容疑者にされてしまうことだってありうる。ただでさえ、記憶がないわたしは何を話していいのか分からないのだ。手に入れた情報を垂れ流すように喋ってもいいことなど何もない。わたしは窓の外で鳴き続けるしか能がない蝉とは違うのだ。話すだけで人間が集まってくるわけではない。考えることが大切だった。
 わたしはベッドから立ち上がり、もう一度座り直して、煙草に火を点けた。いくら加佐村が責任の重い警官だからといって、西垣の厚い壁を簡単に突破できないことは分かっている。それでも根が短気に出来ているのだろうか。イライラが抑えきれなかった。傷のせいか頭がずきずきと痛んだ。
 時計を見ると五時半。
 三十分ごときで何を焦っているんだろうとは思う。わたしの理性はこんなときは神様がくれた時間と考えて、今までのことを整理するべきだといっている。しかし、本能は加佐村が持ち込む情報を早く知りたいと疼いていた。相羽所長の言っていた業務日誌のことなのか、それとも、まったく別のことなのか。塩村の容態が変わって証言が出来るようになったとも、ロイヤルホストの店員がわたしに犯人扱いされて苦情を新宿署に持ち込んだとも考えられた。どちらにもわたしに責任がある。しかし、だからといって捜査本部の責任を預かる立場の警官が出張ってくることとは思えない。
 わたしは灰を落とし、足を組んだ。爪先でスリッパが揺れていた。じっとその様子を見つめる。何かは分からないがどこか納得のいかない感覚がする。スリッパがどうとか言っているわけではない。もっと別の次元のことだ。それはわたしがなぜこの病室にいるのかといった本質的な疑問だった。わたしが怪我を負って、この病院に運ばれたのが五日前。その二日後にはわたしはこの病室にいた。河端も山村も西垣もわたしが記憶を失っていると言い、わたしは彼らの言うままに自分のことを笹神涼と信じた。
 フィルターだけになった煙草を灰皿に捻込んだ。残った煙とともに疑問が沸き上がる。それはわたしが笹神涼ということとともにもっと大切なことだった。
 証拠品として身分証明書を持っている加佐村やわたしの直接の上司である相羽所長がわたしを笹神と認めたからにはそれは間違いのないことだろう。それをどうこういっているわけではない。しかし、わたしは目が覚める前の記憶がないのだ。当然、自分のことについて話すわけもない。西垣はわたしのいったいどこを診察して記憶喪失と診断したのだろうか。
 そこまで考えたときに、病室のドアが開いて加佐村が顔を出した。それに続いて西垣が入ってくるものだと思っていたが、そんな様子もなく、加佐村はドアを閉めた。ピンストライプのシャツにダークグレーのスーツというのは相変わらずだったが、それなりに清潔感があり、まったく着替えていないわけではなさそうだった。
「今回は西垣はついてこないのか」
 わたしの問いには答えず、加佐村はパイプ椅子に腰をおろし、ベッドの上に小さなノートを放り投げた。証拠品を扱うにはかなり乱暴なやり方だったが、同時に加佐村らしいとも思った。
「わたしからいったい何を聞きたいんだ。せっかく来てもらったのに生憎だが、わたしの記憶はまだ戻っていない」
「そんなことは分かっている。俺が親切に証拠品を持ってきても、そのありがたささえ分からず、突っかかるばかりだからな」
「わたしの業務日誌というわけか」
 加佐村はうなずく代わりに、青いパッケージの煙草を出して、口に銜えた。パッケージはハイライトと読めた。テーブルの上を見てライターがないことを確認すると当然のようにわたしの方に手をのばす。わたしはその上にライターをのせてやった。
「それで。この業務日誌をわたしが読んで、何か分かるという確証があるのか」
「そんなものがあるわけないだろう」
「そうか。ずいぶんと暇なことだな。わたしのところにくるよりもこの業務日誌にかかれている人物を当たったほうが効果的だと思うが」
 唇を片方だけ釣り上げた気味の悪い笑みが返ってきた。顔のよさと性格の悪さを知っているだけに、その笑いはわたしをゾクリとさせるに充分だった。
「そんなことはわたしに言われるまでもないことだな。それよりも、大切な証拠品を剥出しのまま持ってきたということの方に意味がある。書いてあることはほとんど役に立たなかったことだろう。それでわたしに話を聞きにきた。そんなところか」
「ずいぶんとまともなことを話せるようになったじゃないか。何か心境の変化でもあったか」
 所長とのやりとりを話そうとしてやめた。個人的なことだし、大村と河端との約束のこともあった。それに所長との繋がりを加佐村が断っているのなら、話が打ち壊しになってしまう。そんなことはしたくなかった。
「少しばかり自分のことについて考えたことがあってな。どうしてもその答が見つからない。まあ、そのお陰でましな考え方が出来るようになったわけだが。記憶がないというのも不便なものだな」
「どういうことだ」
「聞きたいことがあったんじゃないのか。そっちの方を先に聞かせてくれ。西垣を外してまでわたしに言わせたいことなのだろう。事件に関係があるなら尚更のことだ。わたしのことならいくらでも考える時間はある」
 加佐村は鼻を鳴らし、煙草のの灰を落とした。自分の思い通りにならないためなのか、切り出すきっかけがないためなのか。
 間が持たなくなって、わたしはラークに火を点けた。赤い箱はライターとまとめてテーブルの上に置く。それから放り投げられたノートを取った。中を開くとへたくそな字でスケジュールのようなものがびっしりと書かれていた。特に目立った記述はなかった。
「ここに書かれている人間にすべて確認を取ったのか」
「型通りのことだけだ。時間と労力をたっぷりとかけたが、たいした成果はなかった」
「だったら、わたしが見ても意味はない。記憶を失っていなくても、組織力も強制力もないわたしに塩村を襲撃した犯人を見付けられるわけがない」
「それはお前の言う通りだ。警察が期待しているのはお前の記憶に残っている犯人の姿でしかない」
「それで、加佐村がわたしの頭でもぶん殴って記憶を呼び覚ましてくれるのか」
「そんな簡単なことが出来ているなら苦労はしない。お前に求めているのはもっと別のことだ。もちろん、簡単なことではない」
 わざわざ業務日誌を持ってきて、別のことを頼む。その意味がわたしには分からなかった。業務日誌を差し出されれば、誰だってその内容について聞かれると考える。それが自分の記憶にないものであってもだ。
「警察に協力しろといわれても協力など出来はしないが」
 わたしはもう一度ノートをめくり、そこに書かれている名前のどの一つにも記憶が働かないことを確認して、ぱちんとノートを閉じた。わたしにとってこのノートはまったく意味がない。加佐村に持ってきてもらい、所長に確認を取ったことであったが、わたしにはこのノートを生かす方法を思いつくことが出来なかった。
「それにわたしには記憶を取り戻すという大きな仕事が残っている」
 にやりと笑って、加佐村は煙草を灰皿に放り込んだ。その瞬間、わたしは彼の狙いがまさにそのことにあることを悟った。加佐村が見せた笑みは改心のものといってもいいものだったからだ。証拠品である業務日誌を持ってきたことも、西垣を立ち合わせなかったわけも今ならば分かる。すべてはわたしの記憶を取り戻すため。そのことが加佐村の判断した事件解決の一つの手だったのだ。
 もちろん、塩村の意識が回復するという方法もある。わたしがロイヤルホストで烏丸に言ったようにあの辺りの聞き込みを徹底的にやることも出来る。京王プラザに集まった製薬会社の研究員たちの話を聞いて回ることも一つのやり方ではある。
 それらに対してすべて手を打った上で、加佐村はわたしに記憶を取り戻すことを要求したのだ。それが口で言うほど簡単にいかないことは充分に分かっているだろう。
「時間がかかることだ。いつになることだかは分からない」
「はじめから分かっていることだ。今更お前に教えてもらうことではない」
「警察もずいぶんと思い切ったことをするもんだな。わたしになど関わらなくても、警察の組織力があれば充分に犯人を逮捕することは出来るだろうに」
「もちろん出来るさ。犯人を逮捕することは既定の事実だ。直接指揮を執っている俺が言うのだから間違いはない。しかし。その時までにお前は記憶を取り戻しておかなければならない。俺の勘はお前の証言が逮捕の決め手になると読んでいる」
 フィルターを焦がしていた煙草を灰皿に捻込み、わたしは小さく息をついた。
 わたしの仕事は自分の記憶を取り戻すことか。楽なようで楽でないこと。加佐村の言う通りではある。
 確かに業務日誌を基にあちこち連れ回されるよりは、自分で考え、行動するほうが気が楽なのは確かだ。一つ一つ納得するまでその場所に立ち止まれるし、答を強要されることもない。誰にも邪魔されず、事件のことを考えることはわたしにとってはいい。それはわたしにとって文句のないことだった。
 しかし、それを行なうには西垣をはじめとする病院のスタッフから自由になることが最低限の条件だった。いつまでもこの病室に閉じこめられていては、考えることは出来ても行動することは出来ない。自分で情報を集めることが出来ないのなら、考えが堂々巡りするだけだった。そういうことになるのなら、物事を考えたってまったく意味がない。記憶を取り戻しても、わたしはただの証人でしかないのだ。
 それでは納得できない。満足できないと言いかえた方がいいか。わたしは探偵であり、一人の人間でもある。依頼を失敗し、護衛対象を危険な目に合わせ、わたし自身も傷を負った。その失敗を取り戻す何かをやらないではいられない。これが探偵のプライドというものかもしれないが、わたしはわたし自身の手でこの事件をなんとかしたかった。
 自分自身を取り戻すために。
「笹神。どうしても記憶を取り戻せ。これは警察の命令と思ってもいい。そのための資料ならある程度用意してやる。情報を流しても構わない。これからの時間、自分の記憶のことだけに集中しろ」
「西垣はどこにいる?」
「あの医者なら、自分の部屋で研究論文でも読んでいるんじゃないか。お前の気にすることではないだろう」
「関係はある。わたしはこの病院から出なければならない。そのためには西垣の許可が必要だろう」
「お前。何を考えている」
「記憶を取り戻すこと。この事件を完全に解決すること。そのためにはわたし自身を含めた容疑者すべてに話を聞く必要がある。行動する自由が必要だろう」
「お前を放し飼いにするつもりはない」
「だったら烏丸でも大村でもつければいいだろう。わたしにとってはどちらも邪魔者でしかないが、それで加佐村の気が納まるのなら少しは我慢するさ」
「覚悟は出来ているのか。世間の波は記憶がない人間だからといって容赦はしない。今のところは俺が抑えているが、捜査本部内ではお前を本星扱いする警官もいる。ここを出たら、そういう人間に徹底的に苛められることになるぞ」
「それくらいのこと……」
 分かっているとは言えなかった。
 わたし自身が犯人である可能性を考えてはいても、捜査本部でわたし自身を疑う人間がいるとなると話は別だった。自分を疑うのと疑われるのでは天と地ほども違う。加佐村が言っているのは自分が犯罪者であることを受け入れろということだった。
「覚悟が出来ていないんだったら、ここにいろ。病院にいる間は西垣をはじめとする病院のスタッフがお前の怪我を盾に庇ってくれるだろう。俺の権限でお前に対しての取り調べを緩めることも出来る。だが、病院の外となれば話は違ってくるぞ」
「あんたはわたしを庇う理由があるのか」
「別に何もない。ただ、現場を見た限りではお前に犯行は無理だ。塩村を殴ることは出来る。しかしその後で凶器もなしに自分の後頭部を殴ることなど出来やしないだろう」
「それなら、なぜわたしを疑う声があがる。理由などないだろうに」
 加佐村はちっと舌打ちをして、わたしから顔を背けた。
「凶器もない。動機もない。そんな状態で疑うのなら、理由を聞かせてほしいものだ」
「あいつらは相羽探偵事務所全体を疑っている。塩村が飛込みにしては破格の依頼料を払ったという話を聞き込んだらしくてな。零細の部類に入る相羽の事務所が金欲しさに塩村を襲ったということも考えられるわけだ」
「それならわたしを襲う理由はない」
「相羽がお前を邪魔者だと考えていたらどうする。現金が手に入り、お前を消すことが出来れば一石二鳥というわけだ」
 ひねくれた考え方だが、間違ってはいなかった。これでわたしが相羽と会えなかった理由が分かる。警察は相羽探偵事務所の疑いが消えるまで、わたしを保護していたのだ。そして、それは今も続いている。
 しかし。もう一つ納得できないことがあった。それは警官ではない西垣が同じ行動に出たことだ。本人ではない加佐村に言っても仕方がないだろうが、ことばにしないではいられなかった。
「西垣がわたしを人に会わせたがらないのはどういうわけだ。彼にとってわたしはただの患者でしかない。カウンセリングで事件のことを話をしたが、それだけのことだろう。記憶喪失が人に会うことで悪化する病気でもなし」
「そんなことを俺が知るか。それこそまったく意味がないことだ。西垣には彼の考えがある。ただそれだけのことじゃないのか」
「西垣もわたしを相羽に会わせることに否定的だった。それで一つ、思い出したことがある。加佐村が最初にわたしに面会にきたときに西垣と入念な打ち合せを行なったはずだ。いったい何を話した。わたしをがんじがらめにする方法か」
「馬鹿なことを」
「馬鹿なこと? 確かにそうかもしれない。しかし、わたしには腑に落ちないところがいくつもある。そのことを解決する意味でも退院は必要なことじゃないのか」
「お前に付き合っているとこちらの頭が痛くなってくる。お前はいったい何を考えているんだ」
「事件の真実を見付けること。それ以外のことは考えていない。記憶を失った女探偵が考えるのはおかしいか」
 赤い箱を叩いて一本煙草を取り出し、銜えてライターを擦った。つられたように加佐村もハイライトを銜え、わたしのライターを奪って火を点けた。
「正直に言えば、わたしは今まで会ったすべての人間を疑っている。警官が襲ったという可能性も含めてだ。あんたたちがわたしや相羽探偵事務所の人間を疑っているのと同じように。いや。違っているのかもしれないが、わたしはわたしなりにすべてを疑うことから始めようと思っている。その相手が加佐村であろうと西垣であろうと同じことだ」
 加佐村は先を続けろとでもいうように顎をしゃくり、大きく煙を吐き出した。
「警官を疑っている理由はたった一つだ。塩村がわたしと離れたこと。探偵を護衛に雇うほど自分の身に用心をしていた塩村が簡単に近付く人間といえば、社会的に味方と思わせる格好をした人間。警官というのはこの条件にぴったりと当てはまる」
「それで」
「しかし、あの辺りは深夜とはいえ人通りがまったくないということはないだろう。警察お得意のローラー作戦という奴をやればなにがしかの目撃情報が出てもおかしくはない。その場合、警官というのは非常に目立つ存在ではないのか」
「お前、本当に記憶を失っているのか。だいたい、お前が記憶をなくしているという根拠は何だ。記憶を失っているふりをして、犯人を庇っているんじゃないのか」
「そんなことをして何の得になる。記憶を失っていることはこのわたしが一番よく知っているさ。笹神涼という自分の名前でさえいまだにしっくりこない。加佐村も西垣も所長もそう呼ぶから、受け入れているだけだ。それに、いつまで経ってもわたしは他人には馴染めない。話が出来るのは自分の心に何もないからだ」
 実際、考えることはたくさんあっても、他人に対する気持ちなどはなかった。こんなことに気が付くのは遅過ぎるが、自分で自分のことが分かっていなかった。所長と話したとき、わたしは初めて自分を個人として認めてもらったと思った。それはそれで正しい。だが、わたし自身が加佐村をはじめとする他人を人間として認めていなかった。第一通報者である益田をあそこまで追い込んだのも彼のことをものとしか考えていなかったためなのだ。烏丸がわたしに示した態度はわたしのそんな考え方を感じ取っていたからに違いないのだ。
「わたしは他人を利用しているんだ。自分の真実を突き止めるために」
「根っからの覗き屋か。お前に初めて会ったときのことを思い出した。あの時もお前は甘っちょろいことを言っていた。自分を蔑んでいるわけでもなく、醒めた目で見ているわけでもない。ただ事件の真実を突き止め、自分の好奇心を充たすためだけに動いていた」
 加佐村はことばを止め、灰を落とした。
「その根本的なところだけを今のお前は持っている。そのお前がそこまで言うのなら、記憶を失っていることは間違いないだろう」
「そうかもしれない。突き詰められて言われてみると自信はないが」
「ところでお前は西垣も疑っていたな。患者が担当医を疑うということは自分の命にも関わることだ。いったいどういう理由があって西垣を疑う」
「簡単なことだ。わたしはこの部屋で目覚めた。外科病棟ではない。神経科の病室でだ。わたしは目覚めるまで自分が記憶喪失だということをまったく知らなかった。それなのに呼び出した看護婦も西垣もわたしのことを記憶喪失の患者として扱った。意味があることだとは思わないか」
 わたしのことばに対して、加佐村は何も言わなかった。肯定も否定もしない。そのことはわたしを不安にさせたが、加佐村は彼なりの考えがあるのだろう。わたしの記憶を揺さ振ることは出来ないだろうが、彼の見解はわたしにとっては重要なものだった。
 灰を落とし、ベッドから立ち上がる。加佐村が何も言わないのをいいことに、ベッドを大きく回って窓のところにいった。夏の陽がいくら長いといっても、もう夜の色が濃い。新宿の町は人工的な光で満たされつつある。正面に見える東京都庁がきれいにライトアップされて見えた。あの近くに京王プラザがあり、わたしと塩村が襲われたロイヤルホストがある。
 その事件があってわたしはこの病院に運び込まれた。その日からちょうど五日。わたしの記憶が完全にないのは最初の二日だけだ。その間に後頭部の裂傷の治療をしてもらい、記憶喪失と診断されてこの病室に運ばれた。麻酔で自覚がなかった期間を考えると、わたしを外傷性の記憶喪失と診断する時間はほとんどなかったに近い。傷のための記憶の混濁と考えるのが普通ではないのか。
 その問いに窓から見える街並は応えてくれない。加佐村は何を考えているのか黙ったままだ。論理的に考えれば考えるほど、頭の中の記憶は空回りし、空虚さを増していく。結局、わたしは宙ぶらりんのまま、気持ちをコントロールしなければならなかった。
「なあ、加佐村。こういう風には考えられないか。わたしはこの病院に運ばれたときに、見てはならないものを見てしまった。ここにいるはずのない人間でも、運び込まれていた非合法の薬でもいい。それを外部に洩らさないために……」
「馬鹿か」
「そう思うか。ただうまく説明が出来ないんだ。たった一日しかない時間でわたしを記憶喪失と診断した。普通なら記憶の混濁と考えるだろう。しかし、河端という看護婦も西垣もわたしを記憶喪失であるとはっきりと言い切った。わたしにはこの謎が説けない」
「西垣とこの病院を怪しいと思うのはそれだけの理由か。それなら、とんだ見当違いだ。西垣はお前を襲うことは出来ないし、病院にしても同じことだ」
 本当に馬鹿にされたのかと思って、振り向いた。わたしは相当怖い顔をしていたに違いないが、加佐村は気にする様子もなく、煙草を吹かしていた。
「西垣がわたしを襲えないとなぜ言える。深夜のファミレスだ。しかも病院から近いときている。充分にチャンスはあったと思うが。それとも絶対に犯行が無理だという証言でもあるのか」
「彼はお前が襲われた時間、西新宿にはいなかった。新宿駅を挟んで反対側、新宿六丁目の東京医科大にいた。そこの研究室で神経学の学生の修士論文の執筆を指導している。お前の意識が戻って病院に呼び戻されるまでずっとその場にいたと当の学生が証明してくれた」
「それでも人を使えば……]
[それは考えられない。西垣と塩村を繋ぐ線はまったく見つからないし、お前との線も同じことだ。お前と塩村を担当した外科医に関しても線は繋がらない。西垣も病院もお前たちを襲えないというのはそういうことだ」
 ことばを切り、加佐村は煙草を灰皿の中に捻込んだ。それから足を組み、わたしをじっと見つめた。
「お前が考えているのは顔見知りの犯行ということだろう。現場の様子から考えれば、そう判断するのが妥当でもある。そうでなければ、護衛をつけるほど自分の身に危険を感じていた塩村がお前の傍を離れて襲われるとは考えにくい」
「そんなことは何度も考えたさ。あの犯行を行なうには塩村を油断させ、わたしから引き離す必要があった。それがわたしの最終的な結論でもある。その点では警察と見解は同じことになるな」
「だからこそ、お前の業務日誌が大切になってくる。探偵であるお前は最後の最後まで記録を続けていただろうからな」
 わたしは加佐村から渡されたノートを開いた。いくつもの下手糞な文字が羅列されている。指でずっと辿り、一番最後の文字で動きで止めた。
『対象からのリクエスト。会合あり。場所はロイヤルホスト。危険性は考えられないか。相手については不明。出かけるべきではないと思うが、説得は出来そうもない』
 その後はわたしの頭の中のようにずっと空白が続いていた。
「塩村は協力的な依頼人ではなかったということだな。それとも危険を感じていなかったということか」
「襲われるとは思っていなかったってことだろう。そうでなければ、探偵であるお前の忠告を無視してまででかけようとはしないはずだ」
「その相手さえ分かれば、この事件はめでたく解決するということだな」
 加佐村の顔が苦虫を噛み潰したような表情になった。
「それもわたしの記憶が戻れば簡単に分かることだな」
 窓枠のところで煙草を消し、ベッドサイドまで歩いて、灰皿に放り込んだ。
「ずいぶんと話がそれてしまったが、結局は元のところに戻ってきたわけだ。わたしは記憶を取り戻すしかないし、警察は犯人を見付けることに専念するしかない。そして、この病院には犯人に繋がるものは塩村以外存在しない。となると、わたしは他のところを探さなければならない。自由にした方がいいとは思わないか」
「強引な論理展開をする。そして、それが通ると信じて疑わない。それがお前の生意気なところだ。記憶を失ってもそこのところは少しも変わらない」
「能書きはいい。西垣を呼んでくれ。あんたが協力してくれないというのなら、話はわたしがつける」
「いいだろう。責任は俺が取る。お前の好きなようにやってみろ」
 加佐村はそう言うと立ち上がり、病室から出ていった。
 時計は既に八時を差していた。
 わたしはベッドに座り、テーブルの上の新聞と雑誌をていねいに積み上げた。読んだ本も読まない本も同様にきちんと積み上げる。数えてみると読んだ本の方が多かった。といってもたいした数じゃない。全部で十冊程なのだ。一日中何もすることがないわたしにとっては五、六冊読み通すのは何でもないことだった。やはり肌に合うのか、海外のハードボイルドの傑作と銘打たれているものが多かった。
 すべてを整理して、十分程経って、加佐村が西垣を連れて戻ってきた。西垣は一応の話を聞かされているのだろう。恐ろしいほど真剣な顔をしていた。
「笹神さん。退院というのはどういうことですか。私の治療に不満でも」
「いろいろと疑問点はあるが、それはこの際どうでもいいことだ。わたしは自由に探偵活動をしたい。それが出来れば文句はない」
「あなたは記憶を失っているんですよ。病室ないでは不便を感じないかもしれませんが、一歩外に出ればあなたは世間の荒波というものを嫌というほど感じるでしょう。ここは隔離された無菌室であり、あなたが出たがっている新宿の街というのは道標のない砂漠のようなものです。はっきり言って、あなたがその砂漠を歩き回ることは不可能に近い」
「その記憶喪失だが、あんたはいったいわたしをいつ診断した。わたしは五日前、正確に言うと四日前の深夜に近い早朝にこの病院に運び込まれた。それから外科病棟で後頭部の治療を受けた。そこまではいい。わたしにも理解できる。問題なのはその後だ。わたしが意識を取り戻したのは三日前の昼過ぎのことだった。そして、あんたに診察を受けたときわたしは記憶喪失という症名をつけられていた。いや、その前だったか。担当の看護婦がわたしを記憶喪失の患者として扱った。いったいどういうことだ。分かるように説明してくれないか」
 このことを説明されなければ、わたしは前に進めない。それほどの大きな疑問。きちんと説明できないのならアリバイがあろうとなかろうと西垣を疑うことを止めるつもりはなかった。
 加佐村が何か言いかけ、西垣がそれを制した。表情を見る限り、誤魔化そうとする感じはまったくないようだった。
「あなたのことはまったく理解できない。記憶を失っているはずなのに自分の知りたいことがはっきりと分かっている。そんな症例をわたしは聞いたことがない」
「あんたの感想を聞きたいわけじゃない」
「焦っても仕方がないことでしょう。今わたしが退院の許可を与えたとしても、実際に外に出られるのは明日の朝になってからです。ゆっくりと話をしても同じこと。そうではありませんか」
「焦ってるわけでもない。あんたがこの前言ったように探偵というものに拘っているわけでもない。ただ時間をかけてわたしというものを取り戻していきたいだけだ。それだけのことだ」
「説明しなかったのは私の手落ちでしたね。記憶の混濁ということを考えれば、今の事態になることは予想して然るべきでした」
 長くなりそうな気がして、わたしは煙草に火を点けた。人の話を聞く態度ではないことは分かっていたが、頭をすっきりさせるには煙の力がどうしても必要だった。
「最初から説明していきましょう。あなたは治療を終え、生命に別状がないことが確認されてから、この病室に運ばれました。あなたは神経科の入院病棟だと思われていたようですが、この病院は隔離病棟を除いて特別な入院病棟ありません。あなたは後頭部の外傷のケアと同時に精神的な配慮を考えて個室に入ってもらったわけです」
「あんたも神経科の医者ではないというわけか」
「そのことは説明したと思いますが。私は神経科の医者です。記憶が混乱しているという報告があって、私が呼ばれたわけです。ちょうどその時間帯に同じ新宿にある研究室の方にいたものですから」
「つまりはこういうことか。わたしは意識をいったん取り戻し、記憶の混濁を起こした。それであんたが呼ばれたと」
「そういうことになりますね」
 灰を落とし、少し考えてみた。
 西垣の説明はきちんと筋道が通っているように思える。加佐村は確かこう言っていた。『わたしが意識を取り戻すまでは大学の研究室にいた』と。それがわたし自身が自覚している目覚めのときではなく、早朝のわたし自身の記憶にない目覚めだとしたら。記憶喪失と彼が診断した以外のすべての事項は説明がついた。
「加佐村。さっき何か言いかけていた。何を知っている」
「笹神さん。今、説明を行なっているのは私です。人の話をきちんと聞くことんお探偵としての職務ではないですか」
「確かにその通りだが、記憶の混濁だけで記憶喪失と即座に判断できるものなのか」
「それは場合によります。外傷による記憶の混濁なのか、それとも記憶喪失なのか、正確に判断するには確かに大変な時間がかかるでしょう。しかし、あの場合は警察の方が何が何でも情報をもぎ取っていこうとされていました。私がいくつかの質問をして記憶喪失と診断しなければ、ここに入る加佐村さんは納得しなかったでしょう。加佐村さんの話によれば、お二人は以前からの顔見知りのようでしたから、患者であるあなたに無理をさせないために即座に診断を下す必要があったわけです。その結果としてあなたに疑惑を持たせる結果となったわけですが、それはすべてあなたを外部の人間から守るために行なったことです。理解して頂けるでしょうか」
「所長と会うことが出来なかった理由も」
「同じことです。私には警察と探偵の仕事の違いがはっきりと分かっていませんから、あなたを守るためには仕方がなかった。それと同時にあなたが記憶喪失だということを確かめていったわけです。烏丸さんと新宿の街に出してみたのも、推理小説ばかりを読ませてみたのも、そのためでした。結果は私の診断通り。完全な記憶喪失でした。ただ自分と事件についての記憶を失っているだけで、通常生活を送る場合には何の支障もない特殊な症例ではあるのですが。いや、特殊というのは語弊がありますね。通常ではないと言い直しておきましょう。特殊というのは、普通記憶を亡くした患者が持つ記憶が戻ることへの怖れというものがあなたにまったくないことです。それどころか、あなたは積極的に事件と関わりを持とうとしている。神経科の医師としていうならば、理解出来ない患者ということになりますね」
「理解出来ないなら放り出しても同じことじゃないのか」
「無茶な考え方をしますね。先程も説明したと思いますが、今のあなたを街に放り出すということは砂漠に置き去りにすることと同じことなんですよ」
「どうしても退院許可は出せないということか」
「今のところはそうですね。私は新宿の街で途方に暮れるあなたを見たくはない」
 このままではいつまで経っても平行線だった。話し合いは進んでいるように見えてわたしの病状説明の他はまったく意味を持っていない。西垣を納得させるのがわたしの意図のはずだが、そのきっかけがどうにも掴めなかった。
「加佐村。わたしの身元引受人になってくれないか。このままじゃ埒が明かない」
「そんな馬鹿なことが出来るか」
「加佐村さんの言う通りです。警察が身元保証人となったところであなたを一人で放り出すわけにはいかない。あなたの身の安全を保障できる人間がいない限り、退院の許可を出すことは出来ませんね」
「分かった。明日までに考えておく。朝食の後来てくれ。それまでに納得の出来る答を用意しておく」
 西垣はうなずき、加佐村はわたしの顔をじっと見ていた。わたしが何を言いたいのか加佐村なら分かったことだろう。わたしは何があっても退院するつもりだった。自由に行動するために。西垣には迷惑なことだっただろうが、わたしは自分の安全を保障してくれるたった一人の人間をしっかりと思い描いていた。
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