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 見舞い客のまったくこない状況というのは退屈なものだ。それが一人部屋ともなれば尚更のこと。わたしは河端が買ってきてくれた週刊誌を読む以外何もすることがなく、煙草だけを大量に消費する午後を送っていた。その肝腎の週刊誌も事件があって間もないためか、『今週の出来事』欄に「J&Wメディカル・ジャパンの研究員襲撃。製薬戦争の勃発か」とキャッチされた記事が載せられているだけだった。内容については何も知らないわたしとしては、何もコメントをすることはない。ただ「ウイルス学の若手のホープ、S氏の論文強奪には製薬企業間の激しい研究合戦の影響が見られる」との記述だけは何か重いものとしてわたしの中に残った。わたしのこと、探偵事務所のことについては何一つ触れられていなかった。
 もう少し詳しい記事を読みたく思ったが、河端という看護婦のことばを信じるなら、病院の売店で売っている週刊誌でわたしの襲撃事件に関係するものは一冊しかなかったとのことだった。
 同じ記事を三回読み、内容を頭の中に叩き込んで週刊誌をテーブルの上に放り出した。塩村のことが無性に気になった。わたしが守り切れなかった男。週刊誌の記事を信じるなら製薬界のこれからの研究方針を左右しかねない人間。そんな重要な人間がおそらくは同じこの病院で意識不明の状態で治療を受けている。わたしの責任だと感じることは自分自身の探偵としての能力を過信することだと分かってはいた。それでも本人に会い、現実には出来ないことだろうけれども、話をしてみたかった。探偵として、どういう内容の研究を行なっていたのか、それが襲われる理由とどう繋がっていくのか聞いてみたかった。
 しかし、それは絶対に叶わないだろう。塩村が意識不明の重体であることは言うまでもないことだが、西垣の態度にはそれ以外の部分でもそれを許さないものがあった。それは事件の一方の核心を握る相羽との面会を認めないことであり、わたしに自由に使えるお金を持たせないことでもあった。
 そこまで考えて、再び同じことに思い当たる。西垣は加佐村にも烏丸にも協力した。何も輪からないわたしに事件のことを話すこともした。その上、わたしを外に連れ出すことを許し、現場を見せ、証人に会わせることまでした。その一方で、わたしの味方である事務所の人間とは会わせようともしない。話をすることさえ、許可が下りないのだ。不思議なことだった。「考えてみましょう」という西垣のことばは頭に残っている。それも果たして本心から出たものかどうか。わたしの探偵としての気持ちは西垣を疑う方向に傾いていた。
「それをどうやって証明するか」
 わたしはラークを銜え、火を点けた。
 もう一度週刊誌を取る。そこに書いてあることは何度読み返しても変わらないが、西垣を呼ぶ口実にはならないかと考えたのだ。
 襲われた塩村と西垣との共通点はともに医学関係に携わっていること。塩村のウイルス学、西垣の神経臨床学とまったく繋がりが見えない関係ではあるが、中に何人か人を挟むことで繋がってくる可能性もある。東京医科大学病院という組織を考えるとそういうこともありえるのだった。
 煙草の灰を落とし、自分の考えを少し突き詰めていく。
 西垣が犯人として、塩村を襲うことに何のメリットがあるか。塩村の論文はウイルス学を扱ったものだろう。例えそれがエイズを完治させる画期的な論文であったとしても、まったく研究畑が違う西垣には発表する場がない。西垣本人ではない他の東京医科大の臨床医であっても話は同じことだ。塩村の論文の内容については彼一人が知っているという段階ではないだろう。塩村が医療プロジェクトチームのトップであるという事実は、その研究成果はプロジェクトチームの構成員すべてが知っていると考えなければならない。研究成果を奪っても、公式にはどこの学会にも発表できない。まったく無駄なことだ。これでは襲った意味がない。それが人類を救う重要な研究と会っては尚更のことだ。医学の進歩を遅らせるだけではない。人間として許すべきことではない。これではメリットどころかデメリットの方が大き過ぎる。それに別の問題もある。
 逆のことを考えてみよう。塩村の研究論文が発表されれば、医学界に非常な打撃を被るという設定にしてみる。塩村の専門はウイルス学だ。そしてほとんどの病気はウイルスによって引き起こされる。わたしはこの分野にはほとんど知識がないが、もし、ウイルスをなんとかすることによってすべての病的ウイルスを無力化することが出来れば。医者は生活の糧を失ってしまうことにはならないだろうか。塩村のチームはノーベル賞ものの評価を受けるだろうが、その結果としてほとんどの病気は地球上から駆逐されることになる。それを防ぐために医者が集団となって塩村を襲い、論文をもみ消そうとした。無茶な考え方だが、西垣のことを考えると絶対ありえないことではない。しかし、これにも同じ問題がある。
 それはどのようにして研究会のことと塩村の研究内容を知ったのかということだ。どちらの仮説が正しいとしても、このことが解決しない限り証明は出来ないのだ。そして、今のわたしにはそれを確かめる術はない。西垣を呼んでもらって、直接問い詰めても否定されるだけだろうから。
 証拠がなければ、どんな犯罪も立証出来ない。それはすべて第三の仮説にいきつくことになってしまうのだ。つまり、西垣をはじめとする東京医科大の人間は一切犯罪に関わっていないということだ。そして、その可能性が一番高い。そう考えることはまったく無理がないし、自分と関わっている人間を疑わなくても済むという安心感が持てる。
 もちろん、わたしにの好悪に関わらず関係者を容疑から外すべきではないという基本は分かっている。昼食を取った後読んだ本のなかにしつこいほど書いてあったことだ。本来なら犯人を絞る作業は警察に任せることなのだろうが、探偵ということ、そして、わたしが塩村を守り切れなかったという事実がわたしを事件に縛り付けていた。
 それにしても。
 わたし自身好勝手に歩けない制約がついている以上、犯人を追いかけるという作業にはひどく無理がある。事件の情報を詳しく集めた上で、その推理を何の根拠もなく展開させなければならないのだ。そして、その結果が正しくなければならない。わたしの記憶の底に残っている犯人と一致しなければならないのだ。無理どころか不可能とさえ思えることだった。
 第一、事件の情報を詳しく入手することが出来ない。相羽や探偵事務所の人間と会えないことはもちろんのことだが、加佐村、烏丸といったわたしに友好的な警官に会うことすら難しい。
 そう、警官。考えてみれば簡単なことだったのだ。加佐村や烏丸といった捜査の中枢にいる警官に会うことはすぐには無理かもしれないが、わたしにはすぐにでも会える警官がいたのだ。この病室のドアを挟んだ向こう側に。制服警官ではあったが、同じ警察組織に属する人間のこと。わたしに関する何事かは知っているに違いない。それにわたしは拘束衣を着せられているわけでもない。病院内なら自由に歩くことは出来るのだ。
 わたしはパジャマの上から青いカーディガンを羽織り、ベッドからおりた。スリッパを履き、帽子を被る。何だか外に出るには変な格好だが、病院の外に出るわけでもなし、構わないと判断した。それに会うのは警官でしかない。外見に気を使っても仕方がないことだった。
 煙草とライターを持ち、ついでに携帯用の灰皿も持って、病室のドアを大きく開けた。視界に薄いグリーンの壁と歩行補助の手摺りが目に飛び込んでくる。そこから視線を落としたところ、壁にくっつけられた見舞い客用のソファーに堅苦しい姿勢をした警官が座っていた。わたしがトイレにいくときに見かけるいつもの警官だった。
「ご苦労なことだな」
 わたしが話しかけるとは思わなかったのだろう。警官はびっくりしたようにわたしを見上げ、彼のことをじっと見つめていたわたしと視線が合い、慌てて目をそらした。まだ若い警官だった。新宿署管内の外勤の警官を交替でわたしにつけているのだろう。証人であるわたしを守るためとはいえ、本当にご苦労なことだった。
「ちょっと話をしたいんだが」
「なんでしょうか」
「座ってもいいか」
 警官は黙って腰の位置をずらし、わたしの座る場所をあけてくれた。遠慮なくわたしは腰をおろし、ラークを銜えて、ライターを擦った。警官にも勧めてみたが、彼は首を振っただけだった。
「名前を知らないと呼びづらいんだが」
「自分は笹神さんの護衛を命じられているだけです。それ以外に何事も許されてはおりません」
「つまらんことに拘るんだな。まあいい。一つ教えてくれないか。なぜ、わたしと相羽探偵事務所を隔離する」
「自分にはよく分かりません。捜査本部で決められることは刑事課の人間にしか知らされないことだし、自分たちは理由も知らされずに任務を告げられるのが常ですから」
「そんなことで面白いか」
「面白いも何も。任務ですから。自分は与えられた任務をきちんと遂行することが責任を果たすことだと考えております」
 どうにも堅苦しい人間だった。交番で道を聞いてももっと愛想のいい話が聞ける。それとも、それは善良な市民が相手のときであって、護衛の途中で頭を殴られて記憶をなくすような間抜けな探偵には当てはまらないことなんだろうか。
 自分で考えて、腹が立ってきた。この警官にもわたし自身にも。頭を働かすために煙を吸ってみるが、この場合は何の役にも立たなかった。まったく自分自身でもだらしないことだった。
「話を変えるが、塩村にもこうして護衛がついているのか」
「彼も被害者の一人ですから」
「被害者の一人? 加害者の狙いは塩村であってわたしではないと聞いたが。どうしてそんな言い方をする」
「そのことについて自分は何も知らされておりませんから。ただ結果として被害者が二人でた。警察としてはどちらか一方の人間が目標とされていたとしても、どちらも被害者となった場合、それぞれについて動機を考えて捜査をしなければならないんです」
「つまりはわたしが加害者の本当の目標で、塩村が巻き込まれたということも考えられるわけだな」
「そういうことになります」
 加佐村も同じことを言っていた。
 わたしが襲われる理由としては、わたしの担当している女子高生失踪人調査にあるということだった。女子高生を資金源として利用しているマル暴がわたしを的にしたというのだ。しかし、加佐村は即座に否定した。彼らならこんな甘っちょろいことはしない。わたしも塩村も確実に殺されていたはずだと。それはわたしには反論出来ないことだった。記憶がないからではない。加佐村の言うことにはきちんと筋が通っていたからだ。
「しかし、加佐村はわたしが目標であることははっきりと否定したが」
「警視がそう仰ったのなら、そうなのでしょう。自分が口を出すことではありません」
 その時、警官が持っていた携帯電話が鳴った。名前も知らない警官は「失礼」とだけ断り、電話を持ったまま廊下の角を曲がっていった。電話の内容が気になったが、制服警官だからといって職務上のことばかりとは言えない。彼についていきたい誘惑を断ち切り、わたしはソファーに腰をおろした。彼は捜査本部からの命令を受けてこの場所でわたしの警護をしている。簡単には職場放棄は出来ない。あの携帯電話が緊急のものでない限り、いくらわたしと話すのが嫌でもここに戻ってくるはずだった。
 ソファーの傍に置いてあった灰皿に灰を落とし、もう一度銜えて、体を壁に預けた。耳を澄ませてみたが、警官はどこまでいったのか、話し声らしきものは聞こえない。こういう場合は彼は任務を遂行していると言えるのか。他人事ながら心配になった。それにわたしの安全も気になる。彼がいない間にわたしが襲われでもしたらどうするつもりなのだろうか。
 結局制服警官が戻ってきたのはわたしが二本目の煙草を銜えて火を点けたときだった。断っておくがわたしはチェーンスモーカーではない。今のところ、ヘビースモーカーであることは認めざるをえないが、そう度々煙草を口にしているわけではないのだ。その感覚からいくと、彼が戻ってきたのは電話がかかってきてから優に三十分は経っていた。わたしがその時持った感想は警官のくせに長電話が好きな奴だというものだった。
「女からの電話だったのか」
「いえ。警護のことで少し行き違いがありまして。そのことで打ち合せを行なっておりました」
「やっとわたしを自由にしてくれる気になったのか。それならわたしにはいきたいところがあるのだが」
「それは違います。笹神さんに行動の自由を許すということは自分はまったく聞いておりません。これから先、担当の先生から退院の許可が下りるまでこの命令は変わることはないでしょう」
「つまりこういうことか。わたしは記憶が元に戻るまで、この病院から出ることも、自由に動き回ることも、病院と警察の両方から制限されているということか」
「自分には捜査方針の詳しいことはよく分かりませんが、笹神さんがそう考えられるのならそういうことになると思います」
 吸いかけの煙草を灰皿に押しつけ、わたしは立ち上がった。烏丸と一緒にこの病院から外出したときのことを思い出していた。
「なあ。手柄をあげてみたくはないか」
 警官は何も言わず、ただわたしの顔を見つめただけだった。その視線もすぐに外す。彼にはわたしの言ったことの意味がまったく分かっていないようだった。
「手柄をあげてみたくはないかと聞いているんだが。聞こえないのか。それとも記憶喪失の探偵の言うことなど信用できないか」
「何が仰りたいのでしょうか」
「この前烏丸と病院内を歩いたときに怪しい人物を見かけた。ここは入院病棟だから、いろんな人間が動き回っていてもおかしくはないだろうが、彼の動きはわたしにとっては気にかかるものだった」
 わたしはそこでいったんことばを切り、警官の出方を待った。どういう食い付き方をするか見たかったというのが正確なところだろう。飢えた魚のように食い付いてくるなら扱いやすいし、警戒するならそれなりの接し方がある。彼に無視されることが一番厄介だったが、そういうことはありえないという奇妙な感覚があった。
「詳しい話を聞きましょうか」
 予想通り餌に食い付いてきた。こうなれば扱いやすい。わたしは三本目の煙草に火を点けて、警官の横に腰をおろした。
「擦り切れたジーンズに草臥れたTシャツを着た小柄な男のことだ。病院の関係者という感じではなかった。わたしの周辺で見たことはないか」
「確かに二、三度見かけたことはあります。笹神さんの言う通り、病院にそぐわない人間ではありましたが。しかし、ここは公共の場ですし、そういう人間がいてもおかしくはないでしょう」
「それはそうだが。彼は妙にこそこそしていた。まるで、他人に顔を見られるのを嫌がっている感じがした。そのために帽子を目深に被っていたのも気になる。そういう人間がわたしの病室の周りに近付いたときにチェックすることが警官の仕事ではないのか」
「しかし……」
「あんた一人の権限でそれが出来ないというのなら、わたしはこの話を加佐村にするつもりだ。幸いなことに、あんたは携帯電話を持っている。そして、新宿署の電話番号も分かっているだろう。手柄をあげる方がいいか。それとも、わたしがこの場で加佐村に電話をする方がいいか。考えてみれば簡単に分かることだろう」
 警官は考え込み、しばらく考えた後、わたしの顔を正面から見つめた。その表情には戸惑いとか困惑といったものはなく、しっかりとした表情だった。
「協力するとして、自分は何をすればいいのですか」
「そうだな。その前に所属と名前を教えてもらおうか。いつまでも名無しのごんべえじゃあ、気持ちが悪い」
「新宿署地域課勤務、大村賢三です」
「大村。その男を見かけたところについて詳しく思い出してくれないか。どんな些細なことでもいい。今のところ、わたしの周りにいる怪しい人間というのは彼だけしかいないのだから」
「そうではありますが……」
「それとも、彼以外にわたしの周りで怪しい人間が出没している事実があるのか」
「怪しいというだけなら、笹神さんが一番怪しいですね。自分は記憶喪失と聞いていますが、笹神さんは論理的な話し方をするし、ご自分が置かれている状況をよく知っていらっしゃる。その上で、本官を利用してこの事件に関わろうとしている。自分としては笹神さんの記憶がとっくに戻っていて、今置かれている状況に不満を持っているとしか考えられませんが」
「不満はあるさ。わたしは証人として警察にとって重要な人間なのかもしれないが、だからといって会いたい人間に自由に会えないということはないだろう。わたしが相羽に情報を洩らしたところで、捜査が混乱するわけでもなし」
「それは加佐村警視が判断なさることですから。それよりも、先程の怪しい小柄な男のことですが」
「何か思い出したのか」
「特にはないのですが。自分が見かけたときはすべて一階のエレベーターホールに限られておりました。あの男がこの事件に関係していると仮定して、エレベーターホール付近をうろうろする理由はどう考えればいいのでしょうか」
「それはあんたたち警察が捜査し、考えることだろう。何の権限もないわたしが考えることではない」
「男のことを話し始めたのは笹神さんではないですか」
 もちろん分かっている。彼のことを気にしているのは事実だ。気になっている理由も感触としては掴んでいる。雰囲気が病院にそぐわないというだけではない。この病院にいる意味がまったくないというのが最大の理由だった。個人的偏見というならそう言われても構わない。何でもないのならそれでいいのだから。しかし、彼をこのまま放っておくと危険だという思いがわたしをつかまえて離さなかった。
 わたしは顔をあげて、今にも落ちそうになっていた煙草の灰を灰皿に落とした。その時に小さなベルが鳴った。わたしは思わず自分のポケットを探ったが、ベルが鳴るものなど持っているはずもなく、大村という警官にかかってきた電話だった。
 彼は立ち上がって電話に出て、わたしには聞こえない小さな声で一言二言話した後、携帯電話をわたしに差し出した。
「誰だ?」
「加佐村警視からです。笹神さんとお話がしたいそうです」
 煙草を消し、電話を受け取って、耳に当てた。電話は片手で握り潰せそう名ほど華奢なものだったが話すという機能はしっかりと備えているようだった。
「笹神だが」
「出るのが早かったな。制服警官を部屋に連れ込んでいたのか」
「わたしが出向いていただけだ。あんたたちはわたしに対して非協力的だからな。こっちから出向いたというわけだ」
「お前に対してはずいぶんと譲ってきたつもりだが。それを拒んでいたのはお前の方じゃなかったのか」
「医者も警察も誰もわたしの思う通りに動いてくれない。まるでこの病室に監禁されている気分だ」
「そう思うのも無理はない。西垣という医者は食えない奴だからな。病院の医者でなければ公務執行妨害で逮捕しているところだ」
 同感だと思い、自然に笑みがこぼれた。わたしとしても大事な情報を握っている相羽と会えないことは大きな不満だった。
「それで、記憶がないわたしに今更用事というのはなんだ」
「お前は探偵だった。今はそのことに拘りすぎているにしても、根っからの覗き屋で誇りある探偵だったということは間違いがない。そのお前に一つだけ聞きたいことがある。今からそちらにいく。どこにもいくんじゃないぞ」
「それは構わないが。西垣がよくは思わないだろう。どうするつもりだ」
「心配するな。その辺りの根回しは俺がやることだ」
「その点については任せる。その代わり一つだけ教えてはくれないか」
「なんだ」
「ここにくる用事のことだ。わたしは病室で目覚めて以来、名刺と着替え以外何一つ渡されていない。襲われた当時わたしが持っていたものはたくさんあったはずなのだが」
「勘はいい。それは認めてやる。だが、用件は俺がそっちにいってからだ」
 加佐村はそれだけ言い切ると、一方的に電話を切った。まだたくさん聞きたいことはあったのだが、それは加佐村が病室に後のことになるのだろう。探偵としての記憶が戻っていないことが気にはかかるが、ある意味では出口が見つかる楽しみもあった。
 わたしは電話を切り、そのまま大村に返そうとして、あることに気が付いた。これさえあれば相羽のところに電話がかけられるということだった。テレフォンカードも現金も持たないわたしにとってそれは抗しがたい大きな魅力だった。
「加佐村警視はなんと」
「ここにくるそうだ。わたしに聞きたいことがあるらしい。何か、心当たりはあるか」
「自分はただ笹神さんの護衛に駆り出されただけですから」
 大村はそう言うとわたしの手に握られている携帯電話に手をのばした。おそらくは連絡用なのだろう。わたしにいつまでも持たしておいてはまずいと考えているようだった。
「頼みがあるのだが」
 わたしは電話を意識的に自分の胸に抱え、大村から少し離れた。灰皿がわたしの足に当たって倒れ、大きな音をたてる。その音を聞き付けたのか遠くで看護婦の姿が見えた。
「電話をかけさせてもらえないか。すぐに済む。相羽探偵事務所にかけるだけだ」
「それは捜査本部の許可がないと」
「心配はいらない。責任はわたしが取る。ただあることを聞きたいだけだ」
「しかし……」
 大村はそれでも責任を気にしているのか、わたしから電話を取り戻そうとする。わたしが電話を胸に抱えているため、遠くから見ると大村がわたしを襲っているようになった。わたしはソファーに接した腰の部分を軸に一回転し、素早く立ち上がった。それから頭に叩き込んでおいた相羽探偵事務所の電話番号をプッシュする。その時には走ってきたらしく息を切らした河端と体勢を立て直した大村がわたしの前に立っていた。
「はあ、はあ。あなたたちは何をやっているんですか。いくら警察の方といっても笹神さんは患者さんなんですよ。彼女から情報を引き出したいのは分かりますが……」
「待ってください……」
 わたしが聞いていたのはそこまでだった。河端の注意が大村に向いている隙に、壁を回り込み、二人から身を隠す。同時にコール音が途切れ、相手が出た。
「はい。相羽探偵事務所」
「笹神だ。あんたが誰か分からないが、わたしは相羽所長に用がある。代わってくれないか」
「私が相羽だが。どうかしたのか」
「情報を教えてほしい。なぜ女子高生の失踪調査をしていたわたしが、塩村の護衛をすることになったのか。それから……」
「記憶を失ってずいぶんと乱暴な口をきくようになったな。何か気に入らないことでもあったのか」
「気に入らないといえば、気に入らないことだらけだ。西垣は事件の片側しか見せてくれない。烏丸の話によれば、見舞いにきた探偵事務所の同僚を追い返したという。わたしは意識的に隔離されているとしか思えない」
「笹神がそう思うのなら、そうなのだろう。確かに私も見舞いさえいけないのを不思議に思ってはいた。しかし、笹神が精神的に不安定で危険な状態にあるといわれれば、どうすることも出来ないだろう」
「そんなことを誰が」
「担当医の西垣だよ。彼が人に会わせると記憶が混乱する怖れがあるといってきた。そういわれては無理に面会にいくわけにはいかない」
「そうか。そのことは加佐村には……」
「もちろん話している。それでお前の疑問だが。塩村の要請だった。護衛の技術がそれほど変わらないのなら、女の方が目立たないと彼は言っていた。私は護衛経験の豊富な田中をつけるよう説得したのだが、塩村は聞き入れなかった」
「わたしが自分から護衛をかってでたのではないのか」
「そういうことになる。それよりも、精神状態はもういいのか。電話をかけられるくらいに回復をしているのか」
「それは……」
 いきなり、わたしの手の中から携帯電話が取り上げられた。怒ったような表情で河端が立っている。看護婦が近付いてきたのにも気付かないほど相羽との電話に熱中していたわたしの不覚だった。
「笹神さん。あなたは先生に無断で外に連絡を取ることは禁止されているんです。連絡を取りたいことがあるのなら、こんな無謀な手段を取るのではなく、西垣先生と直接お話をするか、私ども看護婦に話してください」
「それではどうにも埒が明かないからこうしている」
「すべては笹神さんの治療のためなんです。お願いですから西垣先生の治療方針に従ってください」
「それなら今許可を取りたい。わたしは自分の記憶を取り戻すために相羽にどうしても聞かなければならないことがある」
 河端は困ったような表情を見せ、自分が取り上げた携帯電話とわたしとの表情を見比べた。
「医者や看護婦といえども患者のプライバシーに立ち入ることは道徳的によくないんじゃないのか。病気によっては煙草を吸ったり、酒を飲んだりすることは命に関わることもある。しかし、わたしの場合は後頭部の外部裂傷と記憶喪失だ。電話をかけることがわたしの命に関わるとは思えない」
「しかし、このことは西垣先生が決められたことですから」
「いったい何のためだ。わたしを情報から隔離するためか。そんなことをしていったいどんな意味がある」
 困ったような顔が泣きだしそうな表情に変わった。彼女を責めてもどうにもならないことはわたしにも分かっている。彼女にはわたしの治療に関する限り、何の権限もないのだから。それでもきついことばをぶつけずにはいられない。それは西垣に対する不信感であり、看護婦たちに感じるイライラだった。
「一言だけ相羽と話をさせてくれないか。すぐに済むし、わたしはそれで満足する。あんたに迷惑がかかることもない」
「西垣先生が……」
「先生は関係ない。あんたも看護婦ならわたしの精神状態はよく分かっているだろう。電話をかけて精神状態が安定する方がいいか、もやもやを残して治療に不満を持つ方がいいのか。少し考えれば、小さなこどもにでも分かることじゃないのか」
 河端は電話とわたしの顔を交互に見て、その視線を横に移した。問いかけるような目付きをしている。その先には制服警官の大村が立っていた。河端は自分に判断できないことを大村に判断させることにしたらしかった。患者であるわたしに言い負かされたというよりも、警官である大村に要請されて電話を渡したというほうが自分にとって納得できることなのだろう。これから、河端をはじめとする看護婦とわたしの関係はギクシャクするだろうが、この先一生この病院で生活するわけではなし、気にすることではなかった。
「大村。あんたはどう思う。わたしは相羽所長と一言話したいだけだ。誰にも迷惑をかけるつもりはない。あんたとこの看護婦が誰にも話さなければ、加佐村にも西垣にも話が洩れることはないんだ。どうする?」
「自分にはそういうたちいったことは判断できませんが。加佐村警視がきてからでは困ることなんでしょうか」
「加佐村がくるからその前に相羽と話したいと言っている。彼はわたしに聞きたいことがあるそうだが、わたしにはそれにこたえる材料がない。それでは加佐村に悪いとは思わないか」
 納得したのか、大村は重々しくうなずき、河端の手から携帯電話を取り上げた。それから通話状態にして、わたしの手に握らせた。河端はそれをじっと見ていたが、警官が中に入ったせいだろう、何も言わなかった。
「いいのか」
「捜査のためになるのであれば仕方がないでしょう。しかし、このことは誰にも内密に願います」
 出来るだけ真剣に見えるような表情をしてうなずき、相羽探偵事務所の番号をプッシュした。コール音が鳴り、すぐに電話が繋がった。
「はい、相羽探偵事務所」
「笹神だが」
「相羽だ。さっきはどうした」
「少しばかり面倒なことがあって。それよりも聞きたいことがある。わたしが塩村を護衛するにあたって、身につけていたものはないか。いつもの仕事で身につけているものはいい。今回の仕事に限って携帯したものを教えて欲しい」
 電話の向こうで少し沈黙があった。紙が擦れる音がする。所長はわたしから再び電話がくることを予想して、どんな質問にも答えられるように事件に関する資料を手元においていたらしい。さすがに一つの事務所を切り盛りしている人間だと思った。
「何もなければ……」
「いや。私はこの依頼に当たって、お前に業務日誌を付けることを義務として課したはずだ。お前が選んだのは小さいノートタイプの手帳だったようだが。塩村の行動、行った場所、会った人間。すべてを記録するようにいっておいた。お前が忠実にそれを守っているなら重要な手がかりになるはずだ」
「加害者に盗られていなければ」
「そうだな。なぜそんなことを急に聞く気になった。何か思い出したのか」
「そんなことはない。ただ、加佐村が来るんでこちらも切札を持っていたいと考えただけだ。面倒なことを頼んでしまった」
「気にするな。事件はお前の記憶のことなど待ってはくれないだろうが、お前には長い長い時間があるんだ。責任はお前にはない。ゆっくりと時間をかけて探偵である自分を取り戻したこい。うちの事務所はいつまでも笹神を待っている」
 所長のことばを聞き、わたしはあたたかい気持ちになり、何も言えなくなった。わたしを事件の証人や患者としてみるのではなく、わたし個人としてみている人間がいる。それは気が楽になると同時に気持ちを揺さ振るものでもあった。ただ単純に嬉しかった。
「笹神。聞いているのか」
「充分過ぎるほどのことばを頂きました。わたしはわたしの力で自分を取り戻します。その時にわたしの力が必要なら事務所に受け入れてください」
 イライラしているばかりだったわたしが、ようやく素直になれた気がした。これで気持ちに余裕が出来る。多分、わたしはこの気持ちを忘れていたのだった。
 気が付いたとき、電話は切れていた。
 わたしは通話ボタンを切り、携帯を大村に返した。大村も河端も誰にも見られなかったことに安心したのだろう。ほっと息を洩らした。今のわたしにはその気持ちが良く分かったが、ことばにしたのは別のことだった。
「これからのわたしは塩村の事件を解決するために、そのことだけを考える。出来ることはそれだけだ。出来れば二人にも協力してもらいたい」
 大村も河端もお互いの顔を見合わせて、揃ってうなずいた。わたしはそれを見て、ただ黙って頭を下げた。不器用なわたしなりの感謝の印だった。
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