5

 次の日。朝早くからわたしは古今東西の探偵物の名作を読み始めるはめになった。テーブルの上には十数冊の文庫本が積んである。今回の事件とこの本とはまったく関係がないはずだが、西垣が本を読むことは脳を活性化させる効果が高いとわたしに言い含めていったので、何となくそういう気になってしまったのだ。脳が活性化したところで記憶が戻るという保障はないはずだが、テレビもなく、新聞も週刊誌も読ませてもらえないとあっては、西垣のことばにおとなしく従うしかなかった。
 そういうわけで、わたしはハードボイルドの名作というものを読んでいる。周りの人間を醒めた目で見る探偵が主人公で、他人を気遣いながらも別の部分では他人の心の中にずかずかと入り込んでいく。そんなタイプの人間だった。他人の気持ちを考えないところは今のわたしに似ていないこともないが、所轄の警察に嫌われ、マフィアからも脅されて、それでも屈しない精神的なタフさは決してわたしには真似の出来ないものだった。
 それはわたしの考えていた事件を解決する探偵像とはまったく違うものであったが、考えていた以上に興味を惹かれたのは事実だった。もちろん、この作品はアメリカを舞台にしたものだから現実的ではないという戸惑いもある。しかし、読んでいる最中はそんな些細な違いは気にならなかった。わたしという人間を主人公に重ねて見ていたこともその理由の一つと言える。読み終わる頃には探偵に戻るならこの話に書かれているような人間になりたいとまで思っていた。
 大きく息をつき、本を枕元に置いて、煙草を銜えて火を点けた。読み応えのある内容で一気に読んでしまったが、それほど疲れは残らなかった。このことから考えれば、わたしは探偵という職業でありながら本を読む人種であるようだった。不思議でも何でもないことだが、一つのことのこれほど集中できるというのは意外な発見だった。昨日の烏丸との行動から、わたしが頑固であることはある程度気が付いてはいたが、それは考え始めると自分が納得するまで集中してしまうということの裏返しのようにも思えた。こんな漠然としたことを、西垣や警官たちにうまく説明できるわけもなかったが、自分では納得していた。
 吸いかけの煙草を灰皿に置き、一階の自動販売機から買ってきてもらった缶コーヒーに口をつけた。冷たさが煙で刺激された喉に気持ちよかった。
 コーヒーをテーブルに戻し、煙草を銜え、新しい本を手に取った。赤い帯に派手な宣伝文を載せたもので、そのコピーを信じるならミステリーの常識を覆す話題作ということだった。それだけ売りに力を入れているということは、探偵もわたしの想像を遥かに超える人物なのだろう。わたしは興味を持ち、ページを開いた。その文章はいきなり人が空から降ってくるところから始まっていた。
 読み進むにつれて、わたしはイライラし始めた。探偵はよくできている。人物描写も的確だ。舞台設定も文句はない。しかし、何となく引っ掛かるものがあった。ある種の不安定さ。トリックのためのトリック。さっきの本当は違った話し口にわたしはうんざりし始めていた。
 少し疲れて本を置いたとき、病室のドアが開いて西垣が入ってきた。相変わらず清潔感が感じられない格好だったが、この本を読むのに飽きかけていたところだったので、話相手が出来るのは歓迎すべきことだった。
「笹神さん。どうですか」
「人格は壊れていないが。今読んでいる本は今朝読んだ本に比べればずっと退屈な内容だった」
 西垣はテーブルの上に伏せて置いてある本のタイトルを見て、納得したようにうなずいた。彼はこの三日でわたしの性格をおおまかにではあるが掴みつつあるようだった。それは加佐村や烏丸といった警官からの情報や相羽をはじめとするわたしの同僚からの話を聞いた上でわたしのことを理解しようとしていると考えるのが妥当といえた。
「ハードボイルドの方が肌に合いますか」
「というよりも、懐かしい感じがする。殴られて記憶を失っておいて何だが、このような体を張った調査がわたしには合っているような気がする」
「相羽さんの話によれば、あなたの調査の仕方はこの本の探偵とは少し違うんですが。あなたは女子高生が対象の失踪人調査を主にやっていたそうですから、トリックを主体とした作品よりもハードボイルドのような自分で行動する探偵に親近感が涌くのかもしれませんね」
 わたしは煙草を灰皿に押しつけ、缶コーヒーに口をつける。考えをまとめるつもりだったが、自分の携わっていた調査のことを言われても、何も頭に浮かんでこなかった。
「まあ、それはともかくとして」
 西垣はベッドの横のパイプ椅子に腰をおろし、足を組んだ。
「トリックを解決する探偵というのは好きになれませんか。私としてはこちらの方が犯人の用意したトリックを打ち破り、追い詰めていく醍醐味があるように思えるのですが。あなたは興味が持てないようですね」
「どうしてそんなことが」
「簡単なことですよ。あなたは既に一冊の本を読み終えている。それはわたしが今朝届けさせたものです。昨日届けさせた古典と言われる本についてはほとんど興味を示していなかったのに、この本には午前中の時間をすべて費やしている。こんな厚い本であるにもかかわらずね。これは文章の面白さだけでは説明が出来ないでしょう。あなたが興味を持つ内容だったということです」
 そんな考えもあるのか。神経科の医者というのは厄介なことを考えるものだ。本の好みを分析されたくらいでこんなことを言うのも何だが、わたしのすべてを見透かされているような気がした。
「あなたはどう思いますか」
「どう思うと言われても」
「あなたは真実を知りたいとおっしゃいましたね。トリックを本筋に据えた本格物も探偵を表に据えたハードボイルドも真実を追求していくという目的は同じはずです。それなのにあなたは人を機械的に殺す本格物には退屈を覚える。それはあなたが本の中の人物をすべて人間として感じているからではありませんか」
 言われてみてそれがわたしのイライラの原因だったのだと初めて気が付いた。すべてが完璧に揃っていても、後から読んだ本は人が殺される瞬間にキャラクターがただの道具になってしまうからなのだ。人間は最期の最期まで人間であるべきだ。そういう考えがわたしの中にあるに違いない。本物の探偵としてはいいことなのか悪いことなのか分からなかったが、今のわたしにはそう考えることが大切なことのように思えた。
「あなたと接触してそういう感じを受けました。あなた自身はどういうふうに考えていますか」
「そう思うのならそうなのだろう。しかし、人間を人間として扱う。それは生きていく上で大切なことではないのか」
「そうとも言い切れませんよ。失踪人調査を専門としているあなたにこんなことを言うのはおかしいのかもしれないが、今世間的に問題となっている女子高生の失踪がいい例でしょう。彼女たちは自分の体が商品になることをよく知っています。そのことを利用し、金を稼ぎ、自分の欲望を充たしている。目的はセックスとドラッグ。遊ぶ金欲しさというのが本人たちの本音でしょうが、そのための手段は自分を道具として扱っているのと変わりはしません。それに対して、女子高生に金を払う側も彼女たちを人間としてみていないのです。セックスの対象としてみているおやじ族も、ドラッグ売買のお得意さんと見ている外国人仲買も、女子高生を金で縛って風俗に沈める暴力団も、すべて彼女たちを商品としてみているのです。その結果、道具となってしまった彼女たちは自分を取り戻すことが出来ず、どんどん深みに入っていくわけです。現実にあなたの働いている場所でこういうことが起きているわけです」
「失踪した人間が商品ならば、連れ戻すには代金を支払わなければならない。となると、わたしの顧客はかなりの金持ちということになるが。しかし、そんなことをしていたのではわたしを信用して調査を頼む人間などいなくなってしまうだろう」
「確かにその通りです。商品を取り戻すのが無理なら、彼女たちに商品ではないという自覚を促すしかない。相羽所長から伺う限りではあなたの信用は非常に高かった。それはそういう人間を人間として扱う技術に長けていたということでしょう」
「だから。わたしは人間を人間として扱わない作品に嫌悪感を示すということか。それはこじつけというものじゃないのか」
「しかし、それは事実でしょう。今のあなたは自分が探偵であるべきだという思考に凝り固まってはいますが、それでも、本質的には変わっていないと考えています。ただ、生活を司る記憶と自我に関する記憶が繋がっていないだけです。その糸口を繋ぐことさえ出来るならば、あなたは元の笹神涼として復活できるはずです」
「その点については理解出来るのだが。その方法が分からない」
「方法については私たち医師の間でも意見が分かれるところです。手っ取り早く薬を打つ医師もいれば、カウンセリングを行ないゆっくりと記憶を取り戻させる医師もいる。私のように様々な体験をさせる医師もいるというわけです」
 西垣はそこでいったんことばを切り、わたしの顔をじっと見つめた。わたしの顔など見つめたところで何かが分かるわけではないだろうに。それでも西垣はしばらくわたしの顔を見つめ、小さく息をついた。
「探偵という職業に就いていたからなのか、あなたは頭の切れる人間です。記憶を失っていても探偵としてふるまうことも出来るし、私が退院許可を出したとしても自分で考えて生活することも出来るでしょう。もしかしたら、探偵という職業に復帰してうまくやってしまうかもしれない。それはそれでいいことなのでしょうが、反面、非常に恐ろしいことでもあります」
「恐ろしいこと?」
「あなたは事件のことを知ってしまった。退院許可を出したり自由行動を許せば、あなたはすぐにでも自分の行動を追いかけていくでしょう」
 わたしには西垣が何を言いたいのか分からず、彼の顔をじっと見つめるしかなかった。答がそこにないことは分かっている。それでも彼の口から洩れ出てくることばを待つこと以外為すべきことがない。この状況はわたしにとってつらいもの出しかなかった。
「人間の感情というものについて考えてみませんか」
 西垣の顔から視線をそらせた。わたしには彼の言っている意味がよく理解出来ない。わたしが自分の行動を取ることと人間の感情に何の関連があるというのだろうか。わたしはもう一度西垣の顔に視線を戻した。彼はじっとわたしの目を覗き込んでいた。
「あなたは人間を人間と見る性癖を持っている。非常に大切なことです。このことは大事にすべきだし、直すべきことではない。その反面、あなたは非常に誤解されやすいことば遣いをされる。いつも何かに怒っているようなイライラしているような感じがあなたの口調にはあります。それは探偵という女には向かない職業に就いたことで身についた自己防衛の賜でしょうが、同時に、あなたを生意気な人間に見せる要素になっています。このことは分かりますか」
「わたしは……」
「別にことば遣いを無理に直させるつもりではありませんからご心配なく。ただ、あなたが何の助けもなくこの街に出ていってしまった場合、そのことば遣いのために相手を不愉快な思いにさせることでしょう。それがあなたの本当の姿なら、あなたは自分で自分を守ることが出来る。しかし、記憶喪失のあなたではそれは不可能に近い。出会う人間すべてを不機嫌にさせ、最後にはあなたを殴った人間を怒らせることになる。そうなった場合、どうなるか想像できませんか」
「いくらわたしが不器用な人間でも、人を人として扱う術は心得ていると思うが」
「昨日のことは烏丸警部からすべてお話を聞きました。あなたは証人であるファミリーレストランの店員をきついことばで問い詰めたそうですね」
 わたしはわたしのことばですべてを話したつもりだった。しかし、それでは人間を人間として扱うことにはならないらしい。そのことはこの壊れかけた頭でもぼんやりとは分かった。西垣は今のわたしは探偵として事件を調べるには力不足と言っているのだ。それは認めがたいことではあったが、自分が誰だか本当に分からない状態ではそういうふうに言われても仕方がなかった。
「今のわたしが探偵としては役に立たないということか」
「そういうわけでもないのですが。一つ一つ説明していきましょうか。あなたは心情的に人間を道具として扱うことを非常に嫌っている。この点に関しては小説の好みを見ても明らかです。それは探偵としてどういう資質なのか私には分かりませんが、捜索対象となる女子高生には信頼される要素であるとは言えるでしょう。その反面、あなたは相手の人間にも感情があることにまでは気が回っていない。生意気に見えるということば遣いはあなた自身の特徴ですから今更言うこともないのですが、ただでさえ警察の事情聴取ということで不安に思っているファミリーレストランの店員に対する気遣いというものはあってもよかったのではないかとは思っています。もう一つ。あなたはわたしの治療に関しては積極的に受け入れています。あなたが記憶を失った事件について非常に興味を持ち、情報を欲しがる。現場に出かけるチャンスがあれば積極的にそれを受け入れるし、話をしようとする意思もある。それはこちらとしては歓迎すべきことなのでしょうが、私は不安を感じずに入られないのです」
「記憶を取り戻さない方がいいとでも言うのか」
「そうではありません。ただ、あなたは記憶を取り戻すことを焦り過ぎているのではないかと感じられるのです」
 焦りすぎている?
 わたしの表情が怪訝になったのだろう。西垣はことばを続けた。
「通常、記憶を失った患者というのは記憶を失う前の自分というものに多かれ少なかれ不安を抱くものです。それがあなたには感じられない。窓の外で鳴いている蝉が一生を精一杯生きているように、自分の人生を探偵として染めていっているような感じがしたものですから」
「わたしの記憶が戻らなければ、事件は解決しないし、わたしも元の生活には戻らないのだろう。それならば早く記憶を取り戻そうとするのではないか」
「加佐村警視や烏丸警部があなたに言っていたことはまさにそのことなんですよ。あなたは記憶のことで凝り固まっている。もっと言うなら、探偵だったという以前の記憶のことで凝り固まっているということです」
 煙草を取り出して、ライターを擦った。朝の柔らかい日差しの中、火種が明るく光る。西垣の説明を間に受けるのなら、記憶というものはこのようなものだ。煙草だけでは何の役にも立たないが、ライターの火を使えば嗜好品として立派に働くことになる。煙草が埋もれた記憶、火がきっかけ、燻らせる煙が溢れだす記憶ということになるのだろうか。西垣が言いたいのは、わたしが半ば強引にこの火に近付きたがっているということなのだろう。その理由はやはりわたしが記憶を取り戻すことに拘っているからで、加佐村や烏丸の懸念は正確に的をえている。
「しかし、記憶喪失の人間というのは元の記憶に拘るものだろう。記憶を取り戻すのに不安を持つ人間も、わたしのように積極的に記憶を求める人間も、逃げているか立ち向かっているかの違いだけで、結局のところ同じことではないのか」
「あなたの言いたいことは分かります。自分の過去に拘らなければならないのなら、あなたのように立ち向かっていった方がいいとは思います。しかし、あなたはこの病院に運び込まれて以来そのことばかりを考えている。少しは自分のために休息した方がいいのではありませんか」
「しかし、わたしは塩村以外で唯一の目撃者だ。捜査に協力するのは当然のことではないのか。そのことが探偵としての失敗を償うことにもなる」
「そういう風に自分を責めることはないのではありませんか。事件は不可抗力だった。私は現場を見ていませんが、後から襲われたとは聞いています。現にあなたは後頭部に大きな傷を負われている。このような場合、格闘技の経験を持つ屈強な男であっても反撃するのは難しいのではないでしょうか」
 わたしが探偵であったということは言い訳にはならないのだろう。西垣はどんな人間であってもこの事件の場合、犯行を未然に防ぐことは出来なかったと言っているのだから。その上で、記憶を失ったのは運が悪かったということになる。いや事実を突き詰めて考えてみれば、これだけで済んで運がよかったというべきか。下手をすれば死んでいた。汚名返上のチャンスもなく、事件の結末を見ることもなく。その意味ではわたしにはチャンスが残ったということになる。神がくれたものだか、運命が動かしたものだか定かではないが、ありがたいことではあった。
「おそらくこのことはわたしの記憶の中に一生残ることなんだろう。傷を負ったことを屈辱とは思わないが、自分の思い通りに動けない調査というのはおそらくは初めてだろうから」
 西垣は何も言わずうなずいただけだった。わたしは煙草の灰を落とし、自分のことを考える。確かにわたしは事件のことばかり考えていた。事件の情報を知りたがり、現場まで出かけ、探偵というものに固執した。その結果として、わたしは何も変わらなかった。無駄なことをしたとは思わないが、実際のところスタートラインにもつけなかったということだ。それは気持ち的には重いものだ。これが西垣の言う焦りや凝り固まった感情なのだろうか。
「一つだけ聞いてもらいたいことがあるのだが」
「なんでしょうか」
「わたしは襲撃事件のことは詳しく聞かされたが、塩村の護衛をすることになった経緯についてはほとんど聞かされていない。そのことを正確に話せる相羽所長と話をさせてもらいたい」
「依頼に関する契約書は加佐村警視があなたに見せたはずです。それで充分なのではありませんか」
「あれはただの紙切れに過ぎない。わたしが求めているのは契約のときに塩村が具体的にどのような話をして、わたしがそれをどのような気持ちで受け入れたかだ」
「今のあなたにはそのことを客観的に考えるだけの余裕がないでしょう。それは負担が大き過ぎる。あなたには休息が必要だと申し上げたはずですが」
「このままの状態が続いても、わたしは今のわたしのままだ。本を読み続け、人間味のない作品にイライラしながら、事件のことを考え続けるだろう。しかし、それではどこにも出口がない。このままではわたしは疲れるだけだ。休息を取るという意見にはわたしも賛成するが、気持ちの上では凝り固まっていくことになる」
「考えてはみましょう。私の治療方針の中には入っていなかったことなので確約は出来ませんが。どういう反応を示すのかについては興味があります。警察に対して一歩も引かなかったあなたが、雇い主に対してどう話を聞くのかという点で。しかし、その前に充分な休息を取ってください。しっかりと食べ、しっかりと眠り、傷を直すことです。頭の傷も心の傷もね。あなたは焦っておられるようだが、元々心の傷というものは治療に長い時間がかかるものです。そのことは覚えておいてください」
 わたしはうなずき、短くなった煙草を灰皿に押しつけた。灰皿はわたしが吸った煙草で一杯になっていた。昨日の晩に取り替えてもらったはずだが、本を読んでいるうちに吸い過ぎていたらしい。頭の傷のことを考えれば自制すべきことだった。
「それでは私は失礼します。先程の件については検討しておきますが、今日、明日というわけにはいかないでしょう。努力はしてみますが、そういうことでお願いします」
「警官とも会えないのか」
「出来れば避けたいのですが。あなたは証人ですから話をすることを断るわけにはいかないでしょう。あなたの心をイライラさせることになるのでしょうが、そのことは覚悟しておいてください」
 これ以上、西垣と話をすることはなさそうだった。彼がわたしのことを考えているのはよく分かっている。その一言一言がわたしの治療に必要なことも。それでも、彼の治療はわたしという患者を徹底的に管理するという印象を受けるのだった。
 そんなわたしの感触に気付いているのかいないのか、にこやかな笑顔を残して、わたしの病室から出ていった。
 わたしは一つ大きなため息をつき、煙草の箱に手をのばして、吸い過ぎだということを思い出した。重ねておいてある赤い箱をそっと向こうに押しやると、変わりに読みかけていた本を手に取った。わたしには合わない本だったが、探偵として生きていく上での参考にはなると思ったのだ。読みかけのページを開いて、そのまま寝転がった。蝉の声と日差しの強さが気になるが、こうして本を読むというのは一番楽なことだった。
 しばらく時間が過ぎた。
 廊下で昼食を運ぶワゴンの音が聞こえ始めた。本に対して熱中しているわけではないわたしの興味はすぐに昼食のことと来てくれる看護婦のことに移った。灰皿の煙草の量で責められることになるだろうが、治療とはまったく違ったことに集中できるのは楽しいことだった。
 体を起こした。本は開いたままテーブルの上に置き、残っていたコーヒーを一気に飲み干した。ほったらかしておいたせいか甘ったるい味がする。慌てて水差しから水を飲んだが口直しにはならなかった。口直しの口直しのつもりで煙草に手をのばしたときに、ワゴンが病室の前に止まり、ドアが大きく開けられた。顔を出したのは河端という若い看護婦だった。
「笹神さん。食事の時間です。気分はいかがですか」
「あまりよくない。本の読み過ぎかもしれない」
「本で気分が悪くなることはないでしょう。私もよく本を読みますけど、楽しい時間が過ごせますよ。笹神さんの気分が悪いのは煙草の吸い過ぎじゃないんですか」
 河端はそういうことをにこやかに話しながら、本と灰皿で何かを置く場所もないベッドサイドのテーブルの上を片付けた。本はパイプ椅子の上に置き、吸殻で一杯だった灰皿は中身だけを部屋のごみ箱に捨てる。空になった缶は外に捨てにいったようだった。それで出来たスペースに昼食が載せられたトレイを置く。ミートソースがたっぷりとかかったスパゲティと、パックの牛乳というのが今日のメニューだった。
「それで、食欲はありますか」
「食べるだけの気力はあるつもりだ。さっきも西垣にしっかり食べて頭の傷を治すことが大切だといわれたばかりでもあるし」
「西垣先生のことは先生と呼ばないと駄目です。これからずっと笹神さんの担当をなさる方ですから、人間関係がギクシャクすると治るものも治りませんよ」
「気をつけよう。それよりも頼みがあるんだが」
「時間がかかることですか」
「話すのは簡単だが、実行するには時間がかかる」
「じゃあ、私は他の患者さんに昼食を配ってきます。笹神さんのお話はそれからということで。どうせ、煙草か缶コーヒーのお使いでしょうけど、それはしばらく我慢してください」
 わたしはうなずき、トレイを膝の上に置いた。河端はそれを見て病室から出ていく。わたしはプラスチックのフォークを握り、ミートソースを掻き回してスパゲティを掻き込んだ。考えていたような甘い味ではなく、ケチャップで味をつけたような感じがした。それでも食べられないよりはいくらかまし。あっという間にたいらげた。ポケットティッシュで口を拭い、牛乳にストローをさす。この病院にきてから、唯一味の変わらない食事。こちらはゆっくりと味わった。食事を片付けてしまい、トレイを廊下に出してしまうと河端が帰ってくるまですることがない。自然に体が動き、煙草に火を点けた。
 煙を燻らせながら窓の外を見つめた。
 まず第一に考えることは事件のことだ。どうしても相羽とは会わなければならない。彼はわたしと塩村の契約を必ず見ている。その状況を聞くこと。これはこの事件を考える上で絶対条件だった。しかし、これは簡単にはいかないだろう。西垣はなぜか渋っていたようだったし、看護婦にその権限はない。加佐村が来たときに頼めばなんとかしてくれるのかもしれないが、烏丸の話から考えるにわたしの事務所の人間と会うのは至難の業のようだった。
 こんなことならば、烏丸と外に出たときに事務所に連れていってもらえばよかった。そうすれば、西垣に邪魔されることなく相羽に会うことが出来た。疑問は疑問として残るだろうが、ある程度の材料は揃ったのだ。今更ながら頭が回らない自分が間抜けに思えてくる。これでは依頼初日に任務を失敗しても仕方がない。
 煙草を灰皿で消し、わたしは大きく息をついた。結局はわたしのミスばかりだ。記憶を失っているとはいえ、よくこんな調子で今まで生きてきたものだ。探偵という職業はそれほど甘いものではない。わたしはもう一度大きなため息をついた。その時、病室のドアが空き、河端がかわいい顔を見せた。
「笹神さん。お待たせしました。それで私は何を買いにいけばいいんですか。煙草、缶コーヒー、新聞。何でも買ってきますよ」
「外に出られるか」
「そういえば、笹神さんの煙草は病院内では売っていないものでしたね。少しの間なら大丈夫ですよ」
「煙草を買ってきてもらうことも必要だが。それよりもこの住所にいって、人に会ってきてもらえないだろうか」
 わたしは初めて西垣のカウンセリングを受けたときに渡されたわたしの名刺を河端に渡した。西新宿八丁目の探偵事務所の住所が印刷してあった。
「これは先生に相談しないと。何かあったときに私では責任が取れないし」
「そんなに難しいことじゃない。ただ相羽所長に会って、一言聞いてくれればいいんだ。笹神はこの依頼を受けるにあたってどのような感想を言ったのか。それだけのことだ。難しいことではないだろう」
「難しいから出来ないと言っているわけじゃないですよ。笹神さんの治療についてはすべて西垣先生が責任を持っておられるんです。勝手なことをすれば叱られてしまいます」
「そうか。じゃあ、仕方がないな。この件については改めて西垣に相談してみることにしよう。あんたには煙草とわたしの遭遇した事件が載っている週刊誌を見繕って買ってきてくれ。それくらいなら大丈夫だろう」
「そうですね。それくらいなら先生も何も言わないでしょう。この後私も少し仕事がありますから、それが終わればすぐに買ってきます。それでいいですか」
「ああ。後、レースのカーテンを閉めていってくれ。日差しが強くていけない」
 気になっていたのは日差しよりも蝉の声だったが、これは生き物の性。いくら自分のことを責め立てるように鳴くといっても、止めることは出来ない。カーテンを閉めるのはせめてもの抵抗だった。
「分かりました。用事はそれだけですか」
「言っても無理なことがあるのだろう。さっきのように断られるくらいなら、はじめから西垣に言ったほうがましだ」
「そうですね」
 河端は笑顔を見せて、ベッドをまわり込んだ。手早くカーテンを閉める。夏の真昼の日差しが少しだけ柔らかくなった気がした。
「じゃあ。用事が終わったらすぐに買ってきますから。本でも読みながらおとなしく待っていてください」
 そう言い残して、河端は出ていった。
 彼女は本を読めといったが、そういう気にはなれない。それよりも西垣がわたしと相羽探偵事務所の人間を会わせない理由が気になった。普通に考えれば、会社の同僚が怪我や病気で入院した場合、義理でも見舞いにくるだろう。実際、烏丸は同僚である清家や田中がわたしに会うために押しかけてきたと言った。それを病院の警備員が止めたとも。
 わたしには笹神涼という名前と事務所の連絡先が載っている名刺を渡しながら、一番事情を知っていそうな相羽には合わせない。それは考えてみるまでもなく不思議なことだった。何かがあるような気がする。自由に動き回れるようになって、まだ財布を返してもらっていないこともおかしなことだった。
「どうしても事務所とは連絡を取らさないつもりなのか」
 治療の一環なのか。それとも何か触れてはならないことがあるのか。天井を見ながら考える。一つのことが気になりはじめると連鎖的に疑い始める。それを完全に解消するためには西垣を徹底的に問い詰めるしかなさそうだった。今のわたしが出来ることといっても高が知れているだろうが、出来ることなら第三者のいる前で西垣に相羽のことを確かめたかった。
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