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 オフィス街にあるためか、それとも他の理由があるのか、店内は比較的すいていた。ざっと見回してみても、背広姿のサラリーマンとOLがちらほらと見えるだけで、店員もカウンターのところで暇そうにしていた。
 わたしたちは店の奥の目立たない席について、コーヒーを注文すると、烏丸が警察手帳を示し、第一通報者であるこの店の店員を呼んでくれるように頼んだ。
 事件が起こって以来、警官がくることはめずらしくないのだろう。注文を取りにきた女の子も別に特別な感情を見せることはなく、コーヒー二つというわたしたちの注文を繰り返した上で、問題の彼はちょうど出勤してきたところで店長の許可さえ出れば話が聞けるだろうとのことだった。
「ここには何度も話を聞きにきているのだろう。今更聞くことなど残っているのか」
「それは笹神が考えるんだ。被害者の立場から考えれば、いくつかは聞きたいことがあることだろう」
「あんまり期待をするな」
 テーブルの端に置いてあった灰皿を引き寄せて、ラークを銜え、ライターを擦った。深く煙を吸い込む。刺激はきたが、証人と何を話すかは何も思いつきはしなかった。あえてことばにするとしたら、事件当時に店を出入りした人間についてだが、そんなことは警察が何度も繰り返して聞いているに決まっている。同じことで仕事にきている店員を煩わすのは気の毒だった。事件の当事者であるわたしがこんなことでは捜査は少しも進まないのだろうが、どうにも頭がついてきてはくれなかった。
 それでも、何か考える。
 煙草を吸い、煙を脳の刺激と変えて、わたしのなかに残っている知識から証人に何を尋ねるか思い出そうとした。小説やテレビドラマではどうだっただろうか。探偵という職業は何を聞き込むべきだろう。目の前に座っている烏丸を見ながら、わたしがこの事件の依頼を受けた探偵だったら何を聞くだろうと考えていた。
 しばらく時間が過ぎた。煙草はすべて灰になり、注文を取りにきた女の子は学生風の若い男を連れて戻ってきた。女の子はコーヒーを置くと戻っていったが、黒の制服に益田という名札をつけた証人の男は行き場もなく立っていた。
「益田くんだったね。何度も悪いけれどあの時の状況を話してほしい。いいかな」
「いいですけど。ぼくはここに立ったままですか」
「わたしが烏丸の方に移る。あんたはこちらに座ればいい」
 そう言うとわたしは灰皿とコーヒーを持って立ち上がり、益田の後を通って、烏丸の横に座った。益田はそれを見てわたしが座っていたソファーに座り、煙草を出した。白地に青いラインが入ったパッケージで、マイルドセブンと読めた。
「何から話せばいいんですか」
「電話をかけることになった経緯から話してもらおうか」
「煙草を吸ってもいいですか」
「どうぞ。あなたの話を聞くだけですから、気を楽にしておいて構いません」
 益田は煙草を銜え、火を点けて、大きく吹かした。事件のことについては加佐村をはじめ、警官が何度も話を聞いているのだろう。いい加減嫌になっているに違いない。わたしの目からはそんな感じに見えた。
「ぼくはずっと遅番でしたから、事件が起こったのは仕事に入って三時間くらい経った頃でした。支払いを済ませて帰っていった客が青い顔をして戻ってきて、電話をかけてくれというんです。それで電話なら入口のところにありますからと言ったんですけど、客の方は大変なことが起こっているの一点張りで。あまりにも騒ぐものだから、ぼくが外に様子を見にいって人が二人倒れているのを見つけたわけです。その時は死んでいるんじゃないかと思って、警察だけに電話をかけたんですけど。その後はパトカーと救急車がこの辺りを埋めるようにきて。警察の方に今言ったようなことを話しました。ぼくが知っているのはそれだけです」
「現場を発見したという客の前後に店に出入りした客はいませんでしたか」
「いえ。その時間帯の接客はぼくに任されていますからいれば気付いたと思います」
「ところで、遅番というのは?」
「ええ。午後十一時から翌日の十一時までの十二時間勤務です。夜中はホテルの客や終電に乗り遅れたサラリーマンで一杯ですし、その時間帯は女の子がいませんから。結構忙しく働いていますよ」
 それがなぜ今の時間に出勤している。言いかけて、警官がこうしたのだと気が付いた。警官というよりは加佐村の配慮だろう。益田というこの店員には迷惑なことだろうが、病院に入院しているわたしが夜中に出歩けるわけもなし、事件を解決するつもりである警察にとっては当然の処置と言えた。
「現場を見たときに特に気付いたことはなかったかな」
「気付いたことといっても……」
「人影を見たとか、見慣れないものがあったとか、そういったことだけど」
「何も気付かなかったですね。ぼくが外に出たときには大騒ぎになっていたし、電話をかけた後は五分もしないうちにパトカーや救急車で一杯になったから。後はみんな足止めされて、警察に話を聞かれたし。覚えているのはいつも冷静な店長がひどく青い顔をしていたことくらいですか」
 烏丸が質問をするとまるで答を用意していたかのようにすぐに益田は答える。警官に同じ質問を何度も受けているであろうことを考えれば、不思議でもなんでもないことなのだが、わたしには少し不自然に思えた。何よりもわたしにそう思わせたのは益田の動揺のなさだった。死体かもしれないものを見せられて、わずか三日しか経っていないのだ。職業警官でもない普通の人間である益田が立直るには時間が短過ぎるような気がした。
「事件についてはこんなもんだろう。彼の話したことは第一発見者の証言とも合っているし、他の店員もそう証言している。まず間違いはないだろうな」
 わたしは黙って目の前のコーヒーに口をつけた。病院で飲まされる出がらしのお茶よりは数倍ましだったけれども、まずいことには変わりはなかった。これが金を取って飲ませる代物かという気さえする。別にコーヒーに当たることはないのだろうが、何かがわたしをイライラさせていた。
「笹神。これ以上聞くこともないと思うが。どうする?」
 烏丸がそう言ったからだろう。益田は吸っていた煙草をわたしの目の前の灰皿で消し、頭を小さく下げた。
「益田だったな。あんたが犯人てことは考えられないか」
「何だって」
「あんたが第一発見者の客と共謀して被害者を殴った。そして口裏を合わせて警察に電話をかけたということはないかと言っているんだ。質問に答えてくれないか」
 それまで冷静さを装っていた益田の表情が微妙に歪んだ。まさか、警官からこんな失礼なことを聞かれるとは思ってもいなかったのだろうが、彼の顔に浮かんでいるのは怒りという感情ではないような気がする。といって驚きでもない。ことばこそ乱暴になったが戸惑っているような感じがした。
「そんなことはあなたたち警察が一番よく知っていることじゃないですか。ぼくはあの日事件が起こるまで一歩も店の外に出なかったし、第一発見者という客も初めて見る顔だった。そんなことはぼくの同僚に聞いてもらえば分かることでしょう」
「あんたがそう言うならそうするさ。客とは初対面だったかもしれないし、被害者の顔も知らなかったかもしれない。しかし、予め外に被害者がいることを知っていれば、ビールビンか何かで殴ってくるくらい五分もかからない。店の人間なら被害者も疑いはしないだろう」
「笹神……」
「そんなことを言われても……」
 烏丸の質問には正確に答えていた益田の口が初めて止まった。警官がする質問には予想出来るものと出来ないものがある。わたしは警官ではないし、質問の仕方も強引だが、後ろめたいことがなければ詰まるような質問ではないはずだった。
「あんたのアリバイはさっき聞いてよく分かっている。第一発見者やあんたの同僚がそう証言しているのならわたしとしても疑う余地は何もない。しかし、世の中は理屈通りには運ばないものだ。疑いだせばいくらでも疑うことが出来る。それに対して的確な答を返せないのなら加害者と疑われても仕方がないんじゃないか」
 煙草を出して銜えた。ライターを出して火を点ける。炎の向こう側に益田の妙に緊張した顔が見えた。さっきまでの落ち着いた態度とは少し違う。自分の無罪をどう証明しようか迷っているようにも見えた。そうでなければ、この礼儀を知らない女からどうやって逃げるかを考えているのだろう。どちらにしても、被害者本人を目の前にして警察関係者と信じている益田を本気で疑っているわけではなかった。
「それとも。あんたには五分とこの店を離れられない理由でもあったのか」
「そんなことはないですけど。ぼくは被害者の顔も知らないし、第一殴る理由がないじゃないですか」
「金で転ぶ人間はたくさんいる。あんたがそうでないという保障は誰にも出来ない」
「だけど……」
「そうだな。やっぱりあんたには人は殴れない。かっとなって喧嘩をすることはあるだろうが。それでも、人間を殺す気で殴ることは出来ない。気を悪くしないでもらいたいのだが、あんたに度胸がないといっているわけではない。優しいと言っているだけだ」
 益田は今度は断りもせず、煙草を銜えてライターで火を点けた。わたしはそれを見て加佐村を思い出したが、それはわたしの知っている煙草を吸う人間が加佐村しかいないせいであり、益田と何か関連性があるわけではなかった。
「それにこの店の入口にはカウベルがついている。誰かがこの店を出入りすれば、店員が気付いたはずだ。あんたかもしれないし、他の店員かもしれない。しかし、あんたの証言には一言もそのことは出てこなかった。つまりは当たり前すぎて、気が付かなかったんだろう。もしもあんたが加害者で金に転ぶような人間だったら店のカウベルを外すくらいの準備をしておくだろうな。悪いが犯罪者にはなれないタイプだ」
「そうだったら。ぼくを疑うようなことを言うんだ。警察だからといってやりたい放題やっていいわけがないだろ」
「捜査の基本はすべての人物を疑ってかかることだ。もちろん、第一発見者の客もあんたも同僚の店員も、もしかしたら、被害者自身も例外ではない。あの時あの場所にいて害を加えることが出来る人間なら、誰であろうと犯人であっておかしくないわけだ」
「笹神。お前何を言っているのか分かっているのか」
「分かっているさ。今のところ言えるのはこの店員の疑いが薄らいだということだ。つまり、この男の証言はある程度までなら信用が出来るということだ」
 わたしは煙草の灰を落とし、銜えて、煙を深く吸い込んだ。確かにこの感じは以前経験したことがある。どうにも動かしがたい相手を口先一つで動揺させ、こちらの思い通りに動かし、喋らせる。加佐村が言っていたことが本当なら、わたしは女子高生の失踪人調査の時に同じようなことをしていたのかもしれなかった。
「それで、ぼくはいったい何をすればいいんですか」
「そうだな。まずは第一発見者が店の外に出てから戻ってくるまでの時間。そして、その客の前に客が外に出たのは何時だったか。その二点を出来るだけ正確に思い出してもらいたい」
 益田は半分くらい吸っただけの煙草を灰皿に押しつけ、それをじっと見ながら考え込んだ。ときどき、頭に手をやるが、これは無意識のうちに出る癖だろう。わたしが散々脅したため、警察組織に対して緊張を覚えているのだろう。わたしは警察の人間ではなく、相手にそう思わせているだけだが、事件解決のために利用できるものはすべて利用するつもりだった。
「あの……」
「なんだ」
「最初の質問には答えられるんですが。後の質問にはちょっと。正確なところは分からないんです。重要なこととは思っていなかったので気に求めていなかったし、会計を済ましたのも同僚でした」
「じゃあ、だいたいのところでいい。質問に答えてくれないか」
「はい。客が戻ってきたのは一分とかかっていないと思います。ぼくがまだキャッシャーで会計処理をしている間に戻ってきましたから。顔面蒼白で、ひどく怯えているようでした。余計なことだとは思いますが、客の着ていた服には血とかその他の汚れは何もついていませんでした」
「それで」
「その前の客が帰ったのは十二時を十五分ほど回ったところだと思います。その時ぼくは接客中で入口の方には注意を払っていませんでしたからよくは分かりませんが、カウベルが鳴ったのは覚えています。その後オーダーを通すことはなかったですから、その時の音が客が帰ったときのものだと思います」
 十二時十五分。その時からファミレスの前で塩村を待ち伏せするつもりだったと仮定しよう。まず第一の難点がある。この店は二十四時間営業をしているということだ。入口近くに陣取っていては人目につくだろう。そしてもし目撃者がいたとしたら、警察の聞き込み捜査で何かが出てくるはずだ。譲って、この店の入口辺りは夜になると暗闇に包まれ、人目につかないとしても、一時間以上も待つ必要はない。現場の様子を見る限り、塩村と加害者はなんらかの面識がありそうだった。ホテルに電話なり何なりして、約束の時間を早めることも出来たはずだ。それで足をつくことを心配しているのなら、ホテルに入る前に連絡を取っておくことも出来た。夏の夜の暑い中、蚊と戦いながら、一時間以上も標的を待っている必要はない。
 そこまで考えて、根本的な間違いに気が付いた。塩村は相手を警戒していたのだ。だからこそ、探偵を護衛につけた。その探偵がまったく役に立たない大間抜けで、加害者側の目論みはまんまと成功してしまったわけだけれども、警戒している相手に簡単に近付くほど塩村は相手のことをよく知っていたのだろうかという疑問が浮かんでくる。
 わたしが彼の立場なら、いったいどうしただろう。相手がわたしの直接の上司で、重要な話があって呼び出されたとしたら。
 以前のわたしがどうしたかは分からない。ただ、確実に言えるのは今のわたしが考えて行動した場合、絶対に依頼人から離れないということだ。相手が依頼人の上司であろうとなかろうと、護衛を引き受けた以上、わたしには彼を守る責任があるはずだった。それをしなかったということはなんらかの予測不能な事態がこの店の前で起こったということではないだろうか。
 その辺りのことは警察の聞き込みを強化すれば何か出てくるだろう。それは新宿という町を回遊する人種が固い口を開くまで長い時間がかかるに違いない。それでも、結果は必ず出るはずだ。警官は非常に優秀だし、いくら他人のことに無関心な新宿の人間といっても、傷害事件のこととなれば態度も変わることだろう。わたしの甘ったれた考えかもしれないが、そうであってほしかった。
「あの。もういいですか。そろそろ仕事に戻らないと」
「笹神。お前にはもう聞く機会はないぞ。知りたいことがあるのなら今のうちに聞いておけ」
「ことばに甘えさせてもらう。最後に一つだけ聞く。被害者を見たといったな。そのどちらかが深夜のこの店を利用したことを覚えていないか」
「さあ。そういうことはあったかもしれないけど、よく覚えていません。確かに深夜という時間帯は客の回転が悪くなるときだけど、僕ら店員は客の顔を確かめて仕事をしているわけではないし。それにぼくは倒れていた人の顔をはっきりと見たわけではないんです。頭のところに大きな血の固まりがあって、それを見た瞬間に死体だと思って慌てちゃったもんだから。役に立てなくて申し訳ないですけど」
「それならそれでいい。長い間付き合ってもらって悪かった」
「いえ。ぼくも身近で起こった事件で興味がありますから、協力できることなら協力します。それに、この辺りに犯人がいたとなると中番になってよかったとも思うんです。新聞では被害者を狙ったように書いてありましたけど、もしかしたら無差別かも知れませんからね」
「これからも警察の人間がいろいろと聞きにくることと思う。煩わしいことだが、これも仕事だ。この事件が解決するまでは我慢してくれ」
「分かりました。もういっていいですか」
「構わない。ずいぶんと参考になった」
 わたしのことばに益田は幼く見える笑みをこぼし、煙草とライターをポケットにしまうと、軽く一礼をしてカウンターの方に戻っていった。
 それを見送り、わたしは灰皿と煙草を抱えて元の席に戻った。これでまた、烏丸の顔を見ながら座る形になる。それまでは気配でしか感じていなかったことだが、実際に表情を見てみると、それは不機嫌そのものの顔だった。
「どういうつもりなんだ」
「なんのことだ」
「だから、今の質問はどういうつもりなんだと聞いている」
 黙ってコーヒーに口をつけた。答えるつもりはあったけれども、少しばかり整理しておくことが必要だった。そうでなければ、わたしの考えていたことなど烏丸にズタズタにされてしまうだろう。目の前に見えることも認めない警官という期待もあるが、無能な警官が警部というのも妙な話だし、それよりもあの加佐村がそんな警官をわたしにつけるとは思わなかった。
「答えられないのか」
「そんなことはないさ。今聞いたことは捜査の上で非常に重要なことだろう。少なくとも益田と第一発見者の客が犯人でないことが分かったし、事件発生より一時間前に店を出たという客について調べることも出来る。それだけでも収穫じゃないのか」
「確かにお前の言う通りかもしれない。実際の捜査を考えれば、その方が合理的なんだろう。しかし、警察の捜査というものはそんな数字で割り切れるもので成り立っているわけじゃないんだ。相手にも我々にも感情があり人格がある。それを傷つける権利は誰にもないんだ。例え、相手が凶悪な殺人犯人だったとしてもだ」
「わたしが益田を犯人扱いしたことが気に入らないわけか。だったら、あの時すぐに止めておけば済んだことだ。情報は得られなかっただろうが、つまらんことを気にすることはなかった」
「止められるわけがないだろう。俺たちは警察の人間ということでここにきている。事情聴取の途中で警察内部の意見が食い違っていることなど言えるわけがない」
「意外と体面を気にするんだな。まあ、お陰で好きなことを好きなように聞かせてもらったわけだが」
「それで分かったことは益田と第一発見者の客が犯人ではなかったということか」
「それだけじゃないだろう。第一発見者の客の前に店を出ていった客がいる。その人間が一時間をこの店の前で過ごして、わたしと塩村を襲ったとも考えられる。その他にも、わたしが塩村の護衛を離れたことが気になる。普通に護衛する場合、約束の相手が依頼人の知り合いだったとしても安全を確認するまでは離れないと思うのだが」
「どうしてそう思うんだ」
 どうしてと言われても困る。わたしは烏丸にも言った通り、自分が考える探偵として行動することに決めたのだ。その意識が益田を犯人として疑い、犯行時間帯のことを聞かせた。そして、いくつかの手がかりを手に入れて烏丸と話し合っているというわけだ。記憶喪失の人間がここまで考えている。本職の警官ならもっと真剣に考えてもらいたかった。今のわたしには最後までの責任は持てないのだから。
「なあ、烏丸。わたしだって記憶を取り戻すために必死で行動している。記憶が戻ったとしても、わたしの網膜には犯人の残像などなく、ただ殴られた間抜けな探偵かもしれないのだが、それでも事件を解決しようと努力はしている。それに対して、わたしに考えさせるだけで、何の情報も提供しないのは不公平だとは思わないか」
「俺はどうして護衛の人間が対象に密着しなければならないのかを聞いているんだ。お前の言い分は今のところは関係のないことじゃないのか」
 大きくため息をついた。気分を変えるために、冷えきったコーヒーを飲む。味も何も最低だったが、何もないよりはましだった。少なくとも考える時間を稼ぐ言い訳にはなる。わたしの言い分を通すべきか、それとも烏丸の質問に答えるべきか。わたしは素早く考えた。頭が少し痛むがここは我慢するしかなかった。
「護衛が対象から離れない理由は何だと考えている。笹神、答えてくれないか」
 烏丸の質問を捌くこと。そうしないことには話は全然前に向いて進まない。わたしはあきらめて、護衛のことに考えを集中した。そうしなければ自分が何を考えていいのか分からなくなるからだった。
「一つ聞いてもいいか」
「なんだ」
「対象というのはなんだ。聞いている限りでは塩村のことのようだが、どうしてそんな呼び方をする。警察用語なのか」
「相羽がよく使っていたことばだ。つまり、お前たち探偵が使っている隠語ということになる。素行調査のときの調査対象。それを省略して対象と呼ぶと聞いたが」
「そうか。この場合は塩村が護衛対象ということか。なるほどね」
 コーヒーを飲み干した烏丸は、サーバーを手に持って歩いている女の子に声をかけてお代わりを要求した。女の子はにこやかな笑顔で近付いてきて、烏丸とわたしのカップをコーヒーで満たしていった。烏丸はそれに当然のように口をつけた。どうやらわたしに勝手に喋れということらしい。
「わたしと塩村が離れた理由が気になるということだったな。以前のわたしにはそれなりの理由があったのかもしれないが、今のわたしには塩村を守るという任務がある人間が彼から離れるということは考えられない。それは護衛の最重要任務が対象の安全を確認するということだからだ。出来るだけ密着し、相手が危険だと感じたら盾となって護衛対象を守る。それだけのことが出来なければ、探偵としては失格じゃないのか」
「そういう意味で言っていたのか。やはり、お前は記憶喪失のままの笹神だ。この護衛がどういうことかも分かっていない」
「どういう意味だ」
「どういう意味も何もない。自分でじっくりと思い出すんだな。事件のことを考えれば、時間はたくさんあるとは言えない。それでもお前は記憶を取り戻すべきだ」
「そんなことは分かりすぎるほど分かっているんだ。今更烏丸に言われることではない。それよりも、聞き込みの情報を教えてもらいたいのだが」
「話はこれで終わりだ。コーヒーでも飲んでゆっくり病院に戻ろう。今日のお前は情報の詰め込みすぎだ。今はなんともなくてもいずれパンクを起こす。そうならない前に病院に戻す。それがお前を連れだす条件だった」
「中途半端なままで放り出すつもりか。その方がわたしにとってはもっと残酷なことだとは思わないのか」
 烏丸はにやりと笑っただけで、わたしの言ったことばには何も答えなかった。そのまま伝票を持って立ち上がる。そして、そのままわたしを置いてキャッシャーのところに歩いていってしまった。
 こうされてしまうとわたしもいつまでも座っているわけにもいかない。立ち上がり、烏丸を追いかけた。このまま病院に戻るにしてもまだ時間はある。その時間を少しでも有効に使うつもりだった。
 わたしは外に出た時点で烏丸にコーヒー代を出してもらった礼を言い、続けて、いくつかの疑問を口にした。わたしの仕事のこと、所長である相羽に会わせてもらえない理由、それよりも何よりも、わたしの護衛の仕方が以前のわたしとどこが違っているのかを聞きたかった。
 しかし、烏丸は何一つ答えてはくれなかった。考え込んでいるという感じではない。まるで、わたしの存在など気にかけていないかのような気がする。それではまだ言い足りない。烏丸の冷たさは新宿の町を行き交う人間の冷やかさとは違っている。わたしの存在を認めながら、それでいてわたしという人間を無視していた。ただ黙って病院からファミレスへと辿った道を引き返しているのだ。病院で初めて会ったときの人のよさは完全にどこかに消えていた。
 わたしは歩いている間中、何をそんなに気を悪くしているのか聞き続けたが、何を言っても冷たい視線が返ってくるだけでそのまま病室までついてしまった。そこではわたしの担当医の西垣と加佐村が深刻な顔をして何事か話し込んでいた。
「わたしの部屋で何を話しているんだ。わたしに関係のあることなら、聞く権利があるだろう」
「その様子だと駄目だったみたいだな」
「ええ。好き勝手にさせれば少しは自分のことを思い出すのかと考えたのですが、護衛のことばかりに拘っていてどうにも思考が固まっているようですね」
「分かった。だったら、今日は話が出来る状態じゃないな。あの現場をみてそれだけのことしか思いつかなかったのなら、素人とそんなに変わりはない。担当医とゆっくり話しでもして、その凝り固まった頭を元に戻すことを考えるんだな」
「どういうことだ」
「言った通りの意味だ。烏丸、帰るぞ」
 加佐村はそう言い捨てると、後はまったく関心がないといった感じで病室の外に出ていった。烏丸もわたしをちらとみて後を追いかける。結局後に残ったのは、わたしと担当医の西垣だけだった。
「何を話していたんだ」
「あなたの治療法についてですよ。どうすればうまく記憶のピースが当てはまるのか。現場にいかせるのは少々荒っぽいと思ったのですが、付き添いの刑事さんの様子ではうまくいかなかったみたいですね」
「わたしはわたしなりに努力した。探偵として考え、探偵として行動したつもりだ。それがどうしてこんな結果になる」
 西垣はわたしの顔をじっと見つめて、それからゆっくりと首を振った。烏丸だけでなく西垣にまでこんな感じで接されるとわたしが本当に自分なのか自信がなくなってくる。自分が誰なのかまったく分からなくなってしまうのだ。
「なあ、わたしは探偵だったのだろう。記憶喪失のわたしでも、日本の警察と探偵という職業の交わるところが少ないのは知っているつもりだ。それでも加佐村も烏丸もわたしのことをよく知っていた。被害者であるわたしのことを調べたとしても度を超している。いったいどういうことになっているんだ」
「私たちは少し治療を急ぎすぎたようです。その結果としてあなたは自分というものを見失ってしまった。というよりも探偵としての自分はこうあるべきだという考えに陥ってしまったのでしょう。それは非常に危険なことです。私としてはまずそれを打ち崩さなければならないでしょうね」
 ここでもわたしの質問は無視された。病院というところは患者に不安を与えるところではないと思うのだが、それはわたし以外の患者に適用されることでわたしは特別な扱いを受けている可能性もあった。
「とりあえず、夕食が終わったら推理小説でも差し入れしましょう。世の中にはあなたが考えているような探偵だけでなくいろいろなタイプの探偵がいることが分かるでしょうから。まあ、すべての小説がうまくかけているわけではないでしょうが、少なくともあなたのこうでなければならないという凝り固まった考えは打ち破ってくれるはずです」
「わたしはそんなに思考が凝り固まっているのか」
「そのことは今のところ気にしなくても結構です。気にしたところで解決することではないでしょうし。それよりも、ほんの他に何か必要なものはありますか」
「この事件の真実を示しているものを。それがなければ、わたしを取り囲んでいた情報が欲しい」
「そういうところは加佐村さんがいっていた笹神さんそのもの何ですがね。逆に言えば、そのことがあなたの記憶を取り戻すのに災いとなっているといえるでしょうね」
「言っている意味がよく分からないが」
「今はそれでいいんです。あなたはいったん自分を壊してみなければならない。乱暴な言い方ですが、あなたという人間を叩き壊して一つ一つ組み合わせていかなければ元には戻らないでしょうね。あなたは非常に不安になるでしょうが、それはそれで仕方のないことだと考えています」
 わたしの人格を壊してしまう?
 この医者はわたしをわたしでなくしてしまうといっているのだろうか。それとも今の自分は本当の笹神涼ではなく、わたしの妄想が作り上げた偽物の人格ということなのだろうか。どちらとも判断がつかない。西垣のことばはわたしをイライラさせるだけだった。
「難しく考えることはないですよ。記憶が戻ってしまえば、笑い話で済むことでしょう。真実を突き詰めていくことはそれからでも遅くはない。この国の警察は優秀ですから、あなたが心配する間でもなく真実を見せてくれるかもしれませんね」
 廊下では夕食を運ぶワゴンの音が聞こえていた。栄養学的ならともかく、料理としては最低のものだ。こんな話を聞かされた上で、食事をしなければならないというのは非常に苦痛だった。
「そろそろ夕食の時間ですから、話し合いはここで打切りにしましょう。あなたも今日いろいろなことがあって頭の整理がつかないでしょうけれど。すべてあなたのことを考えた上でのことですから、この機会にじっくりと自分のことを見つめてください。それから約束のものは夕食後すぐに届けます。それでいいですね」
 西垣はそれだけ言うと、パイプ椅子から立ち上がり、笑顔を見せた。だからといってそれがわたしを安心させるものではなかったけれど、これで今日の話はおしまいだということはよく分かった。
「明日になったら……」
「何か?」
 言いかけてわたしは首を振り、西垣はそれを確かめてから背を向けた。窓の外はそろそろ暗くなりかけていた。長い夏の陽ももう役目が終わったのだろう。蝉の声ももう微かにしか聞こえない。この日と同じように今日の自分を捨てることが出来るなら。
 近付いてくるワゴンの音を聞きながらわたしはずっとそんなことを考えていた。事件のことではなく、わたし自身のことが今日のわたしを悩ませそうだった。


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