3

 痩せぎすで背ばかりひょろりと高い男が看護婦に連れられて病室に入ってきたのは、翌日の昼過ぎのことだった。会った瞬間こぼれるような笑顔を見せる。覚えはないがどうやらわたしと彼とは知り合いらしい。見た感じ三十代半ばくらい。加佐村の言っていた烏丸という刑事だろう。しかし、その外見と顔に迫力がないために気弱な新人サラリーマンという印象を受けた。
「不機嫌そうな顔をしてるじゃないか」
「機嫌も悪くなるさ。あんたたち警官はわたしのことを知っている。ところがわたしには身に覚えがない。こうも好意的に声をかけられるとわたし自身が前科がある人間に思えてくる。探偵だとは聞かされているがそれも怪しいものだ」
「笹神らしくないというとまた不機嫌になるんだろう。お前のいないところであたふたしていたお前の知り合いがまるで馬鹿みたいじゃねえか」
「心配か」
 今朝たった一人で不味い病院食を食べている間、わたしほど孤独な人間はいないと考えていた。朝早くから鳴き続ける蝉にさえ、求愛に応える雌がいる。知らない仲であってもその番いは生命の営みを行ない、やがては土の中で成虫になることを夢見る生命を生み出していく。ところがわたしに会いにくるのは警察の人間か病院の人間かに限られている。それが不満なわけではないが、怪我をした女を見舞うくらいの知り合いくらいはいると思っていた。
 それとも、わたしには見舞いにくるような知り合いもいないということか。考えてみれば確かにそうかもしれない。わたしの容姿の悪さは病院のトイレにいったときによく見ている。殴られたせいで変形したというわけではなく、生れつきのものだった。すべての人間が人を外見で判断するとは思えないが、警察にしか知り合いがいない理由はこんなところにあるのかもしれなかった。
「所長の相羽はもちろんだが、清家と田中がえらく心配していた。事件後すぐに病院に押しかけてきてお前に会わせろと直談判したくらいだ。警護の警官と警備員がいなければ奴らは目的を達していただろうな」
「清家に田中。誰だ?」
「記憶をなくしているというのは嘘じゃなかったみたいだな。お前の大切な同僚だよ。特に清家とは入社時期が一年違うだけだから仲がよかった。そう聞いている」
「つまりはわたしにも知り合いと呼べる人間がいるわけだ」
「相変わらずひねくれた考え方をするが。まあ、そういうことだ。探偵なんて職業、そういう部分でバランスを保っていかないとやっていけないんじゃないか」
「探偵としての笹神涼は人並みの生活を送っていたようだな」
 プライベートはともかく、仕事の同僚とわたしはうまくいっていたらしい。多額の借金をしていて死なれると困ると考えたのかもしれないが、それでも誰も来てくれないよりはましだ。借金も人望がある証拠。そう考えれば悲観することではない。
「それで、あんたがわたしを現場に案内してくれるという警官なわけだ」
「そういう言い方はよせ。俺の方が笹神を信用できなくなる。記憶を失う前、お前は俺のことを烏丸と呼んでいた。呼び捨てにされるのは気に入らなかったが、今のように他人行儀にされるよりははるかにましだった。頼むから烏丸と呼んでくれないか」
「努力はしてみよう」
 烏丸、烏丸と口の中で繰り返し、自分に慣れさせる。警官の名前を呼び捨てにするというのは少しばかり抵抗があるが、向こうからわたしを知り合いだと認めているのだ。ことばに甘えなければ失礼なのかもしれない。
「それで、烏丸がわたしを案内してくれるわけだが。どういうプランになっているんだ。差し支えなければ聞かせてほしい。一応当事者としてスケジュールを知っておきたい」
「お前が襲われたファミレスから見ていこうと思っている。事件も記憶喪失もそこから始まったのだから、その辺りから始めているのが妥当なところだろう。笹神も事件現場を見れば、何かを思い出すかもしれないし」
「加佐村が考えたことか」
「いや。俺が考えたことだ。今日のお前の行動に関しては俺にすべて任されている」
 そういうことなら少しくらいは我侭が言えそうだ。昨日あった感じでは加佐村は自分の判断した範囲内以上に他人が動くことを許さないような我の強さがあったが、烏丸の方にはまだ自由にさせてくれそうな気がした。
「その方が笹神にとって楽だろう。自由に動ければ探偵としての自我が目覚めるかもしれないし。まあ、そういうことだ」
 期待しただけのことではなかった。つまりはわたしの記憶を目覚めさせたいわけだ。人は変わっても警官の考え方は変わらない。わたしの頭脳に刻み付けられている犯人の残像を引き摺りだしたいのだ。
 それが大切なことなのは分かっている。人を襲い、その命を粗末に扱うことは許すべからずことだし、ましてや、犯罪目的が自己中心的なものとあっては議論の余地もない。その捜査に協力することも吝かではない。
 しかし、加佐村にしても烏丸にしてもわたしを道具として扱っている感触がするのだ。感覚ではなく感触ということばを使ったのには意味がある。それは気持ちで感じるものではなく、わたし自身の体で感じるものだからだ。考え過ぎといわれれば確かにそうかもしれない。記憶を失っていない笹神であれば、気にもしなかったことだろう。だからこそ、その感触がわたしの体を覆うのが腹立たしくもあった。
「そういうことにしといてやるさ」
 結局、自分との気持ちに折り合いをつけられないまま、わたしは烏丸の提案を受け入れざるをえなかった。烏丸の責任ではない。そう言い聞かせる。本来の自分であれば絶対に受け入れたことを受け入れられない自分。それは記憶というものを失ってしまった人間が必ず通る不安という道なのかもしれない。
「なにか気に入らないのか」
「そんなことはない。ちょっとした記憶の混乱だ。以前にも同じことがあったような気がした」
「どういうことだ」
「つまらんことさ。それより、いくならさっさといった方がいいんじゃないか。時間は警官にとっても大切なものだろう」
「それもそうだが」
「だったら、外に出ていってくれ。看護婦を呼んで着替えなければならない」
「ああ」
「準備ができたら外に出る。わたしの裸など見てもつまらんだろう」
 烏丸はなぜか不可思議な表情をしてうなずき、パイプ椅子から立ち上がった。その動きもどこかぎこちない。今までの烏丸から考えておかしなことだった。
「どうかしたのか」
「いや。お前には関係のないことだ。それよりもさっさと看護婦を呼べ。お前の着替えなら探偵事務所の人間が持ってきているはずだから」
 少しばかり上擦った声でそれだけいうと烏丸は病室から出ていった。わたしはそれを確かめて、ベッドから降りた。パジャマを脱いで下着だけの姿になる。記憶を失ってから初めてみる自分の体は思ったよりも筋肉質だった。探偵という職業柄、何か運動をやっていたのかもしれない。わたしはそれだけを見て笑みを浮かべると、屈んでベッドの下から紙袋を取り出した。着替えは午前中に看護婦に頼んで持ってきてもらっていたのだ。
 サッカー地のワインストライプのシャツにブルージーンズを合わせる。ウエストのところをベルトでギュッと絞った。その上からサマージャケットを羽織れば準備完了だった。出来ることならば全身が入る鏡に映してみたかったが、自分がきれいな顔をしていないことは知っている。幸いここには鏡もないことだし、自分のファッショうんセンスを確かめるのはまだ先のことでいい。
 テーブルの上から煙草とライターを取り、ポケットに落とし込む。どこにいくにもこれだけは必要なものだった。
「さてと。あんまり待たしても悪いか」
 この烏丸との現場検証に当たって、わたしは探偵笹神涼としてのわたしではなく、わたしが笹神涼だったらどういう風に行動するかを考えて動くことに決めていた。そうしないと記憶が戻ったときに後悔するような気がしたからだ。自分を縛りつけるつもりはまったくないが、自分に恥じない行動を取るつもりだった。
 目を瞑り、心を無にする。
 相変わらず頭の中は真っ白なままだが、常に付き纏っていた不安はもうなかった。今ならそのままの自分を受け入れられるような気がした。大丈夫。
 頭の怪我を隠すためにヤンキースの帽子を被り、病室のドアを開けた。記憶を失ってから初めて外の空気に接することになる。よく考えてみればまだ病院内なのだが、洋服を着て外にいくことになっているわたしにとって第一歩を踏み出すことはそれほど勇気のいることだった。
「看護婦を呼ばなかった」
「着替えなら午前中に持ってきてもらっていた。ああいったのはことばのあやだ」
「そこまで頭が回るのなら、大丈夫か」
「足手纏いにはならないさ。わたしは探偵として行動することに決めたからな」
「そうか。たいした心構えだな」
 わたしの決心に烏丸はなんでもないようにうなずき、ゆっくりと歩き始めた。わたしもその後をついていく。廊下に出ると病院全体が薄いグリーンで統一されていて、落ち着いた感じを与えてくれる。歩行補助の手摺りが目障りといえば目障りだったが、病院にいる以上そんなことを言っても仕方がなかった。いくつかの病室の前を通り過ぎ、角のところを曲がる。そこが外界に繋がるエレベーターホールだった。烏丸はわたしより先に下に降りるエレベーターを呼んだ。
「いつもいる警官はどうした?」
 いつもいるとはわたしがトイレにいくときにわたしの病室の前で鋭い目付きをして立っている制服警官のことだ。彼はパジャマのままのわたしをストーカーのように付け回し、接触する人間をすべてチェックする。途中でわたしに会う河端や山村といった顔馴染みの看護婦にとっては迷惑なことだろうが、わたしにとっては心強い限りではあった。
「今日は俺が連れ回すから。彼には休みを取ってもらった。一日中笹神を警護するというのは神経をすり減らすものだからな」
「わたしが危険人物ということか」
「そんな意味じゃないんだが。犯人グループから人を警護するというのは一人では非常に緊張するものだから」
「グループか。わたしと塩村を襲った犯人は複数だったという確信があるのか」
「俺の見解だが。これは警視には言うなよ。憶測でしかないんだから」
「分かっている」
 大きくフォンが鳴って、エレベーターが上から降りてきた。中には一人小柄な男が乗っている。擦り切れたジーンズに草臥れたTシャツを着た病院にはそぐわない印象の人間だった。おまけに帽子を目深に被って顔を隠している。少し、気になったが烏丸は構わずわたしの体を押して乗り込んだ。
「今はともかく、あの時の笹神は探偵だったはずだ。その笹神を後からとはいえ殴ることが出来るとなると犯人は複数であったとしか考えられない。それに、塩村の方も同時に後から殴られている。塩村が逃げ出した形跡もない。複数と考えるのが普通だろう」
「そういうことか」
 烏丸の言いたいことはすぐに頭に入ってきた。探偵としての心構えが出来ている証拠だろうか。それとも、こういうことは素人でもわかる単純なことなのだろうか。
「しかし、どうしてこんな単純なことが警察内部で取り上げられない。二人一度に殴っているのなら複数犯である可能性の方が高いだろう。どうしてこの分かり切った事実が烏丸一人の憶測になる」
「それはお前が探偵として認められていないからだよ。俺や警視が認めていないわけではない。もっと上の方だ。今回の捜査は警視庁の……」
 エレベーターが一階に降りた。
 小柄な男はわたしたちの間を擦り抜けるようにして走り抜けていった。ちらりと横顔を見たが見覚えがある顔ではなかった。記憶がないわたしがこういうことを言うのはおかしなことだが、もしも彼が事件に関わっているのなら体が覚えていそうなものだ。それとも現場で会わなかっただけなのか。わたしには何もわからなかった。
「笹神。何を考えている」
「今の男のことをちらっと。タイミングよく現われすぎている」
「気にかけ過ぎだと思うぜ。人が集まる大きな建物のエレベーターで他人と乗り会わす確率など非常に高いだろう。たかが一人の男と偶然乗り合わせたからと言って気にしていたんじゃ、キリがない」
 それもそうだが。やはり気になるものは気になった。しかし、烏丸にはこれ以上言ってみても無駄だろう。加佐村にしても相手にしてくれるはずがない。わたしが自分の脳に刻み付けて、調べるしかなさそうだった。
「それでさっきの続きだが」
 まわりは一般病棟になっている。廊下には売店、花屋が軒を連ね、一目で入院患者とわかるパジャマを着た男や見舞いらしい品のいい老婦人らが商品の品定めをしていた。その周りでは誰の連れなのかこどもが走り回っている。欝陶しいことだった。
「何の続きだ」
「警察の上の方が指揮を執っているという話だ」
「そのことか。それなら話すことは話した。これ以上話すことは何もないな。俺も実際のところ詳しいことは聞かされていないんだ。まあ、俺にとってはどちらでもいいことだ。刑事になった理由は笹神と同じ。真実を知ることだからさ」
「そうか。記憶を失う前の笹神はそんなことを考えていたのか。わたしとしてはあんまり付き合いたくないタイプだな」
「そういうな。自分のことだろう。これから何十年も付き合っていかなければならない相手だ。冷たいことを言うなよ」
 わたしは黙って廊下を歩き、案内所の横を通って入口の自動ドアの前に立った。ガラスを通して見る外は強い日差しに照らされて、わたしを拒否しているかのように見える。そこから先は記憶を失ってから初めて体験する本当の外界だった。ここから一歩を踏み出せば、病院という無菌室の中で管理された医者や看護婦、患者ではなく、生の人間に会わなければならない。自分のためとは言え、ストレスは相当なものになるだろう。覚悟は出来ているつもりだったが、いざとなると足が竦んで動かなくなるのだった。
 その足を無理矢理動かしたのはやはり烏丸だった。特別なことをしたわけではない。ただ単にわたしの肩を軽く押しただけだ。それが本当にさり気ない仕草だったので、抵抗なく一歩を踏み出してしまったのだ。気が付いたときには病院の外だった。右手側には大きな建物が見えていた。
「お前の見てるほうが俺の職場でもある新宿署。この病院の向こう側がお前の職場の相羽探偵事務所だ」
「今はあんまり興味はないな。それよりもファミレスの方に早く連れていってくれ」
 烏丸は苦笑いのような表情をして、わたしの肩をもう一度押した。新宿署があるといった右手の方向だった。
「警察署の前で襲われたのか」
「そんなことがあるかよ」
 そうは言ったが、烏丸は右にいく足を止めようとはしなかった。真っすぐ歩き、道に突き当たってまた右に曲がる。正面には烏丸のことばを信じるならば、東京ヒルトンホテルの茶色の姿が見えていた。その向こうには東京都庁の大きな姿も見える。病院の窓から身た通り、わたしが新宿にいることは間違いはないようだった。
 その間にも足は止まらない。
 大きな通りに出て、左に曲がり、最初の信号のところで初めて立ち止まった。烏丸が何事か言って指差した方向にはさくら銀行が見えた。何を言ったかは大型トラックが物凄いスピードで目の前を通り過ぎていったため聞こえなかったが、どうせ、あの辺りにわたしに関係があるところがあるといったことだろう。目的地に着けば教えてもらえるのだし、聞き直すことでもなかった。
 信号が青になって並んでいた人が一斉に動き出す。変な感じがした。何がおかしいというわけでもない。普通に人が動いているだけだ。それでも何か引っ掛かるものを覚えて、周りを見渡した。さすがにこの辺りになると仕事中のサラリーマンが多いのだろう。背広姿の人間が目立った。誰もが急ぎ足でそれぞれの目的地に向かって歩いている。何もおかしいところは……。
 結局わたしは大通りを渡り終えたところで座り込んでしまった。おかしいところに気付いたわけではない。ただ単に気分が悪くなったのだ。久しぶりに外に出て、人に酔ってしまったのかもしれない。しかしそれだけでは説明のつかない何か悪いものに出会ったような感じがした。
「笹神。どうした?」
「いや。なんでもない。多分、これからのことを考え過ぎて気分が悪くなったんだろう。情けないことだが、これが今のわたしの現状だ。役に立たなくて悪いが」
 首根っこを捕まれて引き摺り起こされた。細っこい体の烏丸のどこにこれだけの力があるのかと思うほど凄い力だった。わたしは無理矢理立たされ、今度は胸ぐらを掴まれた。烏丸の表情は今までからは想像も出来ない鬼の顔になっていた。
「笹神。お前は俺が認めた探偵なんだ。若造だろうが女だろうが記憶が失っていようが、そんなことは関係ない。お前は探偵であることを考え、そのように行動すればいいんだ。それがお前のためでもあり、この事件を解決することでもある」
「わたしもそうしようと考えていたさ。烏丸が知っている笹神ならば、こんなことで弱気になったりせず、きちんと仕事をこなしていただろう。それは分かっている。だから、そのように行動しようとした。その結果がこの様だ。わたしは記憶とともに探偵としての力も失ってしまったんだ」
「お前は馬鹿か。自惚れるんじゃねえぞ。警官だって組織を最大限に使って事件を解決していくんだ。探偵一人に何が出来る。ましてや、お前は記憶喪失なんだ。俺だってすぐに結果が出るとは期待してはいないさ。ただお前に探偵であり続ける努力をしろと言っているんだ」
 言い終わると突き放された。
 彼の行動は予想できていたので不様に転ぶことこそしなかったが、バランスを乱したのは事実だった。大声も出したことだし、わたしたちは相当目立っているに違いない。それでも道行く人たちはこちらをちらりと見るだけで、知らない顔をして通り過ぎていく。違和感のピースが一つ頭の中で見つかったような気がした。
 それは人の関心度だった。
 わたしみたいな人間は何かがあれば、構わずに首を突っ込んでいく。それを好奇心というのだろうが、わたしにはそれがどこから涌きだしてくるのかはわからない。多分、生れつきのものだろう。しかし、この街の人間はそれが欠落している。それなのに、わたしと塩村が襲われたときには救急車を呼んでくれた親切な人がいた。それがわたしの感じた違和感だったのだ。気が付いてみれば単純なことだった。
「笹神。乱暴にして悪かったが、俺の気持ちはそういうことだ。弱気になるなといっても無駄なんだろうけれど……」
「構わない。わたしが甘ったれていた。自分で決めたことは最後まで貫き通すさ。それよりも、そんなことを考えている余裕があるのならわたしが襲われた現場のファミレスに連れていってくれ」
 現場となったロイヤルホストはそこから歩いてすぐのところにあった。そこの一角は今でもロープが張られ、見張りの警官が立っていた。烏丸は彼と何事か話し、わたしの方を横目で見て名前の確認をしているような仕草を見せた。わたしは構わず、現場に入り腰をおろした。わたしのものか塩村のものか分からないが、アスファルトの上に血痕があちこちに残り、見るものを緊張させるには充分な現場だった。わたしの記憶は何も蘇らなかったが、ここにきたことで自分を取り戻す第一歩を踏み出したような気がした。考えてみれば、烏丸はここにくる前にわたしに心の準備をさせてくれていたのだ。大通りを渡る前に烏丸が指差していたのはさくら銀行の向こう側にある現場だった。
「何か思いつくことがあるか」
 わたしは目の前にあるロイヤルホストを見上げ、それから通りを挟んだ向こう側にある京王プラザに視線を移した。深夜、小腹が減ったときに食事を摂るにはちょうどいい場所にある。動くにしてもここから見える入口から真っすぐ歩道橋を渡ってくるだけでいい。教われることを考えなければ、これほど便利なところはなかった。
「仕事を終えて、何か軽いものを腹に入れるつもりなら塩村がここにきたいと思ってもおかしくはないな」
「それだけか」
「ただ、研究発表の論文を持ってくるところではない。ホテルの部屋はオートロックのはずだし、手荷物の預かりサービスもあることだろう。安全性を考えるならば、塩村もわたしもホテルに論文を置いていくことを選んだはずだ。それをわざわざここまで持ってきたとなると待ち合わせをしたという可能性が高くなる」
「その考え方は加佐村警視と同じだな。すべての状況を考え合わせるとそういうことになるそうなんだが。それなら、相手の方を見ているはずだろう。後から殴られるということはないんじゃないか」
 それは確かにその通りだ。簡単に考えてみよう。待ち人が先にきている場合、わたしと塩村は相手に正対することになる。となると必然的に真正面から殴られることになり、わたしのように後頭部に傷を負うことはありえない。逆に考えてみても同じだ。わたしと塩村が先にきた場合、ファミレスの入口に背を向けて人を待つだろう。店の中から相手が来ても外から来ても簡単に相手に気付くことが出来る。後から殴られることはない。
 考えが完結し、何かおかしいことに気が付いた。そう。待ち合わせが深夜のファミレスの前では納得がいかない。いくらこの辺りが明るいからといって、論文を読むには暗過ぎるだろう。麻薬の取引でもあるまいし、わたしだったら待ち合わせは店の中でする。それが普通の人間の感覚というものだ。他人は自分が思っているほどこちらのことを気にしはしないのだ。
「わたしだったら待ち合わせは店の中でするな。少なくとも塩村にはそう言うだろう。わたしが探偵だということを考えれば、そうすることが自然ではある」
「そうだろうな。しかし、塩村が論文の横流しをしようとしていたら話が違ってくるだろう。出来るだけ人目につかない方法を選ぶんじゃないか」
「そのことは考え済みだ。ここに歩いてくる途中で気が付いたんだが、この街の人間は誰も彼もが他人には無関心だ。取引ならここで行なうより、店の中で行なったほうが目立たない。それにわたしを一緒に連れていく意味がまったくない」
「それもそうだが。笹神はどう考えているんだ」
「そんなことが簡単に分かるのなら苦労はしないさ。それよりもここに遺留品と呼べるものは何かなかったのか。犯人のものでも塩村のものでもわたしのものでも構わない」
「財布が二つ。物色された跡のあるアタッシュケースが一つ。ともに被害者の持ち物だった。残留指紋はなし。犯人の手がかりといえるものはなかった」
「そうか」
 わたしは立ち上がり、ポケットから煙草を取り出して火を点けた。烏丸にも勧めてみたが彼はただ首を振っただけだった。
「それでも、加佐村はここで待ち合わせが行なわれたと考えるわけか。その証拠でも見つかったのか」
「お前も同じ考えだっただろう」
「わたしは可能性として言ってみただけだ。依頼人が重要な論文を持ってここまでくるとしたら、誰かと会うとしか考えられない。それが敵であろうと味方であろうとだ。わたしを連れていったということを考えれば、その相手とはあまり友好的ではなかったということだろうな」
「なぜそんなことが分かるんだ」
「考えてもみろよ。友好的な相手がいきなり後から殴ったりするものか。警官ならそのくらいのことは思いつけよ」
 つまらんという表情をして、烏丸はわたしから目をそらした。みっともないとでも思っているのだろう。わたしは彼を気にかけるような無駄なことはせず、ロープを張った現場にもう一度座り込んだ。
 広い範囲に飛び散っている血痕の様子から見て、わたしと塩村は相当な強さで殴られたようだった。実際、命があるのが不思議なくらいだ。記憶喪失で済んでいるのは日頃の行いがよほどいいか、悪運が強いかのどちらかだろう。塩村の方は意識不明で生死の境を彷徨っている。意識が戻れば、わたしなんかよりもずっと犯人逮捕の役に立つだろうに運の悪いことだった。
「わたしと塩村が倒れていた位置はどうなっていたんだ」
「なんだって」
「倒れていた位置だ。それによって襲われた状況が分かるんじゃないのか」
「そういうことか。このことはまだ部外秘なんだが」
 烏丸はちらりと見張りの警官の方に視線をやり、彼がこちらに注意を払っていないのを確かめると、わたしと同じように腰を屈めて急に声を顰めた。
「塩村の方がファミレスの入口に近い位置で殴られている。ちょうど我々の方をを向いて倒れていたんだ。笹神は二、三歩遅れた形で塩村を見るように崩れ落ちていた。大きな血痕が二つあるだろう。入口に近いほうが塩村のもの、その手前にあるのがお前のものというわけだ」
「相手は塩村の知り合いだったのか」
「それが分かれば、捜査はずっと楽になるんじゃないか。この辺りにはドラッグ販売を生業とする外国人も多い。金を持っているカップルと間違えられれば、殴られることだってあるかもしれない」
「それはないな」
「どうして、お前にそんなことが分かる。事件を見たというのなら否定はしないが。お前の記憶が戻らない限り、犯人以外で加害者の本当の姿を知っている人間はいやしないんだぞ」
 その通りではある。
 ただ、この倒れ方はあまりにも不自然だった。わたしが先に殴られ、塩村が助けようとしたところを一撃されているように感じる。外国人犯罪者だった場合、塩村は迷わず逃げるだろう。それをしなかったということは、塩村を殴った人間は彼のよく知っている人間ということだ。そうでなければ、簡単に背中を向けたりはしないだろう。殴られるその瞬間まで塩村は襲われることなど考えもしなかったに違いない。
 しかし、会議に出席するのに探偵に護衛を頼むほど慎重な行動をする塩村がわたしから離れたという点が気になる。わたしが彼にどのような護衛方針を取ると話していたかはまったく記憶にないが、今の状態のわたしが考えても軽率な行動は取らないように言っておいたことは想像できる。それが離れた位置で殴られている。この辺りに何か事件の鍵があるような気がした。
「笹神。何を考えている。事件に関する記憶でも戻ったのか」
「そんな上等なもんじゃない。ただ襲われた位置が不自然だと思っただけだ。それだけのことだ」
「いったいどういうことだ。笹神が襲われ、ほぼ同時に塩村が襲われた。それですべての状況の説明がつくんじゃないのか」
「その論理は正しい。確かにわたしが襲われて、その後、塩村が襲われたんだ。そうでなければ、二人の間の距離がうまく説明できなくなる。塩村は約束の相手を見つけて近寄った。その時にわたしの悲鳴か呻き声を聞いたのだろう。振り返ったところを約束の相手に殴られた。そういうことだ」
「そんなことは現場を見れば分かることじゃないのか。お前にわざわざ説明されることじゃない」
「しかし、逆も考えられるな。犯人はわたしが目的だった。二人を囲み、引き離した上でわたしと塩村を殴った。アタッシュケースを奪ったのはカモフラージュのためだろう。こう考えれば、非常に頭のいい犯人像が浮かび上がる」
「お前。本当に記憶を失っているのか。すべてを覚えていてそれでいて何もかも隠しているのなら、それは犯人隠匿という犯罪になるんだぞ」
「それだったらずっと気が楽だったのにな。わたしは記憶をなくしている。おかげで犯人は捕まらないわけだ。ただ一つだけ分かったことがある。わたし自身が事件のことに首を突っ込むのが好きな好奇心ばかり強い馬鹿な女だということだ」
 わたしは立ち上がり、烏丸もそれにつられて立ち上がった。フィルターに火がつく寸前まで吸ってしまった煙草を、西垣から貰った携帯用の灰皿でもみ消し、その中に放り込んだ。灰皿は蓋をしてポケットに戻す。その間もわたしは現場を見つめていた。
「それで、好奇心の強い笹神はこれからどうするつもりだ」
「中に入ってコーヒーでも飲むさ。息抜きが必要だ。なんといってもわたしは怪我人なんだからな」
 陽は少し傾いていた。
 もうずいぶん時間が経ったのだろう。ここには何度もくることになるのだろうが、今日のところはこれ以上記憶を揺さ振るものはなさそうだった。想像ならいくらでもできるのだが、そういうものは証拠にも何にもならない。事件の本質に迫るためには休息と別の角度からの見方が必要なはずだった。

SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送