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 時計と夕刊が届いたのはその日の夕食の後だった。持ってきたのは西垣の前に顔を見せた河端という看護婦で、彼女はわたしの喫煙癖を聞いていたのだろう、ガラス製の灰皿をつけてくれた。一人部屋だから煙草を吸うにも気兼ねがない。わたしがさっそく一本銜えて火を点けると、看護婦は「あまり吸わない方がいいですよ」ということばと笑みを残して部屋から出ていった。
 既に時間は七時を回っている。
 面会時間はとっくに終わっている時間だ。西垣が連絡を取るといっていた加佐村という警官はまだこない。おそらくは現場周辺の聞き込みに忙しいのだろう。記憶喪失でろくに証言能力のないわたしに関わるよりもずっと効果的だ。傷害事件の捜査のことはよくは分からないが、わたしなら何も知らないに等しい人間に時間を割いたりはしないだろう。その人間が調査を専門とする探偵であったとしても。わたしもその方が気が楽だった。
 わたしは夕刊を取り、社会面を開いた。総会屋絡みで逮捕者が出た証券会社の裁判の経過と大手スーパーの買収劇の他は大きな扱いを受けている記事はなかった。高速道路での事故、行方不明の女子高生が無事保護されたこと。そういうことが小さく記事を囲んでいる。わたしが遭遇したという事件は何一つ触れられていなかった。二日も経ち、死者も出ていない事件などそういうものだろうか。経過が詳しく知りたかったわたしとしてはなにか肩透かしを食らった気分だった。
 こんなことならば、わたしの上司である相羽所長を呼んでもらえばよかった。西垣の話とわたしが手にしている名刺から合わせて考えるに、わたしは相羽探偵事務所というところに所属している。となれば、わたしの仕事について一番詳しいのは所長である相羽ではないか。事件のことに気を取られすぎて警官のことばかり考えてしまったが、仕事内容となるとまったく話は違ってくる。わたしは警察の仕事をしたのではなく、探偵事務所の仕事をしたのだから。
 看護婦を呼んでみることも考えた。枕元のボタンを押せば来ることは分かっている。河端という看護婦が来るのか、それとは違う看護婦が来るのかは分からないが、頼めば相羽を呼んでもらえるような気はする。
 しかし、それとは別に西垣に会いにいくことも考えていた。昼間の様子から察するにわたしのことに関しては彼が一番の責任者だろう。この広い病院で彼がどこにいるのかは考えもつかないが、加佐村と会わせるというわたしとの約束が守られていない以上、院内にいることは確実だと思う。
 問題はどちらがより早くわたしの欲求を充たすことが出来るかということだった。看護婦を呼ぶか院内をうろつくか。時間的効率を考えれば、看護婦を呼ぶことが一番手っ取り早い。そうして西垣を呼び出してもらえばいいのだ。理由はなんとでもつけられる。記憶のことで相談をするといえば、看護婦も拒否はしないだろう。
 その一方でもっと現実的なことがあった。西垣に渡してもらった煙草がとっくに切れてしまったことだ。ヘビースモーカーだったらしいわたしのことを考えれば、今夜一晩を煙草なしで過ごすことは非常につらいことだった。外に出てみれば、煙草の自動販売機くらいあるだろう。わたしの好みの煙草があるかどうかだが、なければ、代用品を買えば済むことだ。拘ることもない。
 そう考え、ベッドから降りて、お金を一切持っていないことに気付いた。そう。わたしは私物をすべて返してもらったわけではないのだ。一番重要な住所録をはじめとして、事件の時に着ていた服、財布などは返してもらっていない。よく考えてみると、返してもらったのは名前と煙草と名刺入れだけだった。これでは買い物にいくわけにもいかない。
 あきらめてベッドに戻り、わたしは枕元のボタンを押した。煙草の補充、西垣の呼び出し、相羽との会話許可、私物の返還と要求することを一つ一つ整理していく。以前のわたしがどうだったかは知らないが、今はこうして優先順位をつけていかないとうまく話すことも出来ないのだ。
 情けないことだが。
 それでも記憶喪失という自分を受け入れるためにはそれなりの儀式が必要だった。頭を整理することもそうだし、わたしに関する情報を集めることも含まれる。最大限の努力をして、わたしという人間を取り返すべきだった。それだけしか今のわたしに出来ることはない。それが記憶喪失と聞かされてもパニックにならない理由でもあった。
 外で微かな足音が聞こえ、ドアがノックされた。返事をする前にドアが開いた。河端とは違った年配の看護婦だった。
「笹神さん。どうかされました」
「煙草を買いにいきたいんだが。現金の持ち合わせがない。どうにかならないか」
「傷に触りますよ」
「煙草は先生が渡してくれたものだ。もし頭の傷に触るようなものなら、そんなことはしないだろう」
 怖い顔をより複雑な表情に変えて、看護婦は考え込んだ。胸のプレートには山村と書いてある。年からいけばかなりベテランのようだが、他人のことがまだうまく考えられないわたしは彼女が煙草のことさえうまく処理できないとんでもない無能のような気がした。難しい顔をしているだけでなかなか返事をしない彼女に、わけもなくイライラした。
「それなら煙草のことは先生に頼むから、西垣先生を呼んでくれないか。彼ならわたしのことについて責任が持てるのだろう」
「西垣先生は接客中です。今、呼び出すわけにはいきません」
「わたしは先生と警察の人間と話が出来るように約束をしてもらった。その約束を果たしてもらっていない。わたしの記憶を取り戻すためにはどうしても必要なことだ」
「西垣先生のお客というのはその警察の方です。今の笹神さんには理解できないことかもしれませんが、記憶喪失という症状は非常に扱いが難しいものなんです。刺激的な話を急にされて症状が悪化することもありますし、嫌な現実に曝されることになって自分の殻に閉じこもってしまう患者さんもいます。そういうことにならないように、西垣先生は面会の前に警察の方と綿密な打ち合せをしているわけです」
「つまり、わたしと会う人間は事前に先生のチェックを受けるわけか」
「外部の人間は特にそうなります。笹神さんの場合は入院された事情が事情ですし、特に精神的なケアには念を入れることになると思います」
「私物を返さないことも関係があるのか」
「先生には先生の考えがあってのことでしょう。そのことについては先生がいらしてからお話してください」
 警官との話し合いも無理であれば、所長の相羽との話し合いは問題外のことだった。連絡先はわたしの持っている名刺に書いてあったが、私物を返さないことで電話連絡も出来なくしているようだった。まるで隔離された病人のようだ。一見自由に見えて、わたしはこの部屋から外に出ても何をする自由もないのだ。といって、病院を抜け出してどこにあるか分からない探偵事務所を探すことも出来ない。わたしにその意思があったとしても、看護婦か警備員によって止められるだけだろう。今のわたしに出来ることはただ待つことだけ。西垣の判断を仰ぐ他ないのだ。
「仕方がない。面会と私物についてはあきらめよう。どんなに粘っても、あなたでは埒が明かないだろうから」
 山村はまた複雑な表情になった。
「ただ、煙草だけはなんとかしてほしい。煙を吸っていると考えがまとまってくるような気がするんだ。喫煙は先生が許可してくれたことだ。あなたにそれを禁止することは出来ないだろう」
「そうですね。銘柄は何でもいいですか」
 わたしは赤いラークの箱をテーブルから取り上げて、彼女に渡した。
「この銘柄を頼む。病院内の自動販売機になければ、外で買ってきて欲しい。ここは新宿だ。この銘柄を売っている自販機やコンビニもあるだろう」
「努力してみましょう。ただ私も勤務中ですので勝手に外に出歩くわけにはいきません。病院内で見つからない場合は他の銘柄のものになると思いますが、それで我慢してください」
 これ以上言っても無駄だと思って、わたしは黙ってうなずいた。馴染んだ煙草は手に入らないかもしれないが、それでも煙がないよりはましだった。少なくともわたし自身の不安を考えることが出来る。出ていった看護婦を見送りながらわたしはそんなことを考えていた。
 看護婦が帰ってくるまで少し時間がかかるだろう。考え事をするにはいい時間だ。わたしはおとなしく待つことに決めた。
 新聞を取り、もう一度赤で囲まれた記事を読んだ。男が塩村、女がわたしだということは分かっている。ファミレスの位置が西新宿二丁目というだけでいま一つはっきりしないが、京王プラザで会議があったということからその近くだとは考えられる。しかし、西新宿のホテル街にファミレスなどあっただろうか。
 壁の一点。妙に白いところを見つめて考える。西新宿で探偵をやっているわたしのことだ。記憶を失う前はホテルの集まるこの街の地理など空で覚えていたに違いない。答はこの頭の中にあるのだ。思い出せないのがもどかしかった。
 地図が欲しかったが今はそれを言っても仕方がない。とりあえず、ホテルの近くにファミレスがあるということで考えをまとめることにした。とっかかりがないと何も始まらない。わたしは記憶を取り戻さなければならないのだ。そのための努力はなんでもするつもりだった。
 覚えていない自分の行動に神経を集中し、すぐに力を抜いた。頭がすぐに痛くなる。映像は浮かびかけるのだが、すぐに霞がかかってしまうのだ。頭が考える状態にならないのはどうしようもないことだった。
 しかし、ここであきらめるわけにはいかない。時間がかかってもわたしは記憶を取り戻さなければならないのだ。その重要な鍵となるのはこの事件をしっかりと追いかけていくことだった。
 わたしはベッドから降り、スリッパを履いて、窓の方に歩いた。看護婦が閉めていったカーテンを開けると夜の新宿の街が一望できる。見事にライトアップされたビルが林立している。ここから見る限り、このきれいな街で犯罪など起こりそうもない。しかし、灯りのもとには必ず羽虫が集まるように、繁華街にはさまざまな人間が集まってくる。そのうちの一人にわたしは殴り倒されたのだ。
 間違いのない事実。それはこの包帯が証明している。無意識に頭を押さえ、東京都庁を見上げた。その巨大なシルエットもわたしには何も光明を与えてくれなかった。大きくため息をつく。仕事には失敗し、記憶を失って何の手がかりもない。わたしがこの事件で失ったものは限りなく大きい。わたしはもう一度大きなため息をついた。
「不様だな」
 振り返ると知らない男が立っていた。ピンストライプのシャツに渋い赤のネクタイを締め、ダークグレーの仕立てのよさそうなスーツを着込んでいる。ざっと見たところ四十代といったところか。傍に西垣が立っているところから見て、この男が昼間言っていた警官なんだろう。加佐村という名前。背も高く、警官というよりもエリートのサラリーマンに見える。かなり切れそうだった。
「いったいどういうふうにすればこんな不様なことが出来るんだ。え。女探偵」
「加佐村さん。彼女は記憶を失っています。あまり刺激になるようなことは……」
「分かっている。ただ、この女が俺の知っている笹神涼だと思うと腹が立ってな」
 まったく礼儀を知らない奴だ。いいところは外見だけで、口の聞き方も態度も人間に対するものとは思えない。それとも警官というのは誰に対してでもこういう態度を取るのだろうか。
「それで。なにか思い出したのか」
「何を思い出す。今のわたしは自分を取り戻したいだけだ。あんたに聞かれることは何もない」
 加佐村は顔を歪めたが、わたしに対しては何も言わず、西垣に何事か言って部屋の中に入ってきた。そのままベッドサイドのパイプ椅子に腰を降ろす。ポケットから青いパッケージの煙草を出して銜え、テーブルの上のわたしのライターを使って火を点けた。
「警官が来たってことはわたしに対する事情聴取が始まるわけか」
「記憶を失ったお前に事情を聞いたって高が知れている。それよりもお前がどうしてこの仕事を受けることになったのか、事情を説明して記憶を揺さ振ったほうが遥かに有効だ。心配はするな。相羽の許可は取ってある」
「記憶を揺さ振る? 専門家でもない警官にそんなことが出来るのか」
「ふん。かわいげがないところは変わっちゃいないわけだ。記憶がなくなれば、少しは丸くなると思ったのだが」
「大きなお世話だ。事実があるのならさっさと話せ」
「笹神さん。そう興奮しないで。ベッドに戻ってゆっくりと話しましょう。加佐村さんもそう喧嘩腰では笹神さんが落ち着いて話すことが出来ない」
 西垣のことばに感銘を受けたのか、加佐村は黙って煙草を吸い、わたしが吸い殻で一杯にした灰皿に灰を落とした。わたしはそれを見て煙が欲しくなり、カーテンを閉めてベッドに戻った。横になり、タオルケットを羽織るとその膝に赤い箱が放り投げられた。わたしの吸っている銘柄だった。
「看護婦に頼まれてな。気の抜けたものよりきついものの方がお前の頭もすっきりするだろう」
「それで。わたしが殴られるようになった原因というのはなんだ。加害者に恨みでも買っていたのか」
「恨みなら買っているだろうな。お前の探偵としての仕事は女子高生を中心とした失踪人調査だった。援助交際で稼ぎ、ドラッグをやり、首が回らなくなって風俗にまで足を踏み入れた女子高生が相手だ。それを取り仕切っているマル暴にとってはお前は邪魔な存在だろう。チャンスさえあれば、殴り殺したいと思っても無理はない」
 わたしはラークの封を切り、一本取り出して、ライターを擦った。ボウと火種が大きく光る。頭がずきずきした。
「つまり。犯人の目的は塩村ではなくわたしだったということか。つまらないことだな。わたしの記憶を揺り起こすまでもない。新宿中のマル暴を絞めあげていけば済むことだ。時間はかかるが確実に犯人は捕まる」
「お前、本気でそう考えているのか」
「そういうことじゃないのか」
 加佐村は吸いかけの煙草を灰皿に捻込み、わたしもそれに合わせて灰を落とした。
「記憶をなくしたというのはまるっきりの嘘ではないということだな。あの笹神がこんなに腑抜けているわけがない」
「どういうことだ」
「犯人の目的は塩村だったということだ。そうでなければ、辻褄があわない。冷静に考えてみろ。マル暴がこんな甘いことをするか。あいつらはプロだ。生かしておいては後々面倒なお前を中途半端なままで放っておくはずもないさ」
「塩村の方に原因があったというわけか」
 加佐村はうなずき、スーツのポケットから折り畳まれた紙をわたしに押しつけた。開いてみるとなにかのコピーのようだった。
「これは?」
「塩村が書いた護衛依頼の契約書だ。ここにお前がやるべきだった仕事の内容がすべて書いてある」
 そう言われて、わたしは渡された紙に目を落とした。たしかにJ&Wメディカル・ジャパン 塩村和幸の名前と担当者としてのわたしの名前が書かれていた。依頼内容は単純にして明快。国内の製薬業界の研究者が集まる間、塩村本人と会議で発表する予定の論文及び資料を守ってほしいというものだった。期日はわたしと塩村が襲われた日から一週間となっていた。
「わずか一日として任務を全うできなかったことになるな」
「不様なことだ」
「確かにその通りだが。わたしが人間である以上、後から殴りかかられては防ぎようがないだろう」
「その通りだ。しかし、お前は言い訳をするような人間ではなかったはずだがな。済んだことは素直に認めて、そのミスをを取り返す方法を考えているはずだ」
「ずいぶんとわたしのことに詳しいな。ドラマや小説の世界ではともかく、現実の世界では探偵と警察というのは水と油だと思っていたが」
 加佐村はそれには答えず、ハイライトのパッケージを軽く叩いただけだった。西垣の方を見ると、彼はわたしのことが珍しい症例の患者なのか、カルテに熱心に書き込みを行なっていた。
「被害者について警察が調べるのは当たり前のことだろう。唯一証言できそうな人間とくれば尚更だ。それが探偵という特殊な職業についている人間なら期待もしたくなる。記憶喪失というのは意外なことだったが」
「好きでなったわけじゃない」
「まあ、そうだろう。お前のことだから任務の遂行に当たっては細心の注意を払ったんだろう。安全なはずのホテルをわざわざ抜け出し、深夜のファミレスにいっている。お前なりの計算があってのことだろうさ。なにしろお前が一番よく知っている街、西新宿なんだからな」
「被害者に対してえらく絡むじゃないか。探偵がどじを踏むのがそんなに面白いのか」
「お前がただの女探偵ならそう思っただろうな。警察に任せておけばいいことを怪しげな探偵事務所に依頼する。その考え方自体が間違っているんだと」
「わたしの場合だと違うのか」
 加佐村はそれには答えず、煙草を銜えて火を点ける。もちろんわたしのライターを使っている。警察というところが好きなときに好きなものを市民から徴用できるようだった。わたしは小さくため息をつき、灰皿でラークの火を消した。昼から吸い殻を片付けていないため、かなりの量が溜まっていた。
「どうなんだ」
「お前のところの相羽とは一緒に仕事をしたことがある。あいつが警官だった時期だが。お前にも捜査を掻き回されたことがある。もう済んだ話だが。その印象から考えて、お前のところは堅実に仕事を積み重ねていく方式を取っている。依頼人の安全を第一に考え、そのことを頭において行動する。そうだったはずだ。それが今回に限って、依頼人を危険に曝すような真似をしている。それがどういうことなのかが分からない」
「その点についてはわたしも考えてみたさ。今のわたしが考えてみてもおかしいと思う。依頼人を深夜のファミレスに連れ出すなんてことは無謀なことだった」
「それで」
「それだけのことだ。わたしには加害者が塩村を殺す気で殴ったのか、金品目当てのチンピラの犯行なのか、会議用の論文を狙ってのものなのかまったく判断がつかない」
「記憶を失った頭でそれだけのことを考えられればたいしたものだ。頭は忘れていても、体は覚えているということか」
「なんとでも言え。わたしはここで目覚めてから嫌というほど自分が探偵であることを聞かされてきた。そのことばにのせられて、自分なりに考えているだけだ」
「つまらないことを考える」
「警官などという無神経な職業についていると、他人の気持ちなど気遣いもしないんだろう。あんたがその典型的な例だ。わたしは記憶を取り戻すために事実が知りたい。そのつもりで話した。しかし、あんたが話しているのはわたしが如何に探偵という職業に毒されているか。そのことだけだ」
「それでも充分に事実だと思うが」
「笹神さんが知りたいのは全体的なことではなく、記憶を失う直接の引き金となった事件のことでしょう。記憶喪失のことを前向きに考える患者さんにはよく見られる傾向です。医者の立場から言わせてもらえば、こういうときは患者の欲求に正直に答えてあげた方がよい方向に転ぶはずです」
「煩わしいことだ」
 わたしは確かに事情説明のために警官を呼んでくれといった。あくまでわたしが遭遇したファミレスでの襲撃事件のことだ。目の前の加佐村が話すようなわたし自身のことや事務所の方針ではない。そういうこともいずれは記憶を取り戻すために必要になるのだろうが、それは今ではなかった。
 それにしても。
 警官に知り合いがいるというのは考えもしない事態だった。いや、少しは考えはしたのだ。あたしがまっとうな人生を歩んでいない場合のことで、犯罪者として関わりを持っている可能性についてだった。自分の職業が探偵だと聞かされてからは、そのことについては気にしなくなっていた。探偵だって一般市民から見ればまっとうな職業ではないはずだが、警官の扱う事件と探偵の扱う事件はまったく違うと自身で判断し、勝手に壁を造っていた。まったく面白くもないことだった。
「加佐村さん。起こってしまったことをつまらないことと考えるのは止めにしましょう。人間誰だって事件に巻き込まれる可能性はあるし、それが不可避なことだってある。笹神さんのように探偵という特殊な職業についている方なら尚更のことではないですか」
「あんたの言う通りだが、この探偵がどう思っているか。いや。そうだな。俺も理屈の上ではこいつが記憶をなくし必死で藻掻いていることは分かっているんだ。しかし、こいつの顔を見るとな。どうしても真剣に事件に取り組む探偵の顔を思い出してしまう。俺としても腹立たしいことなんだが」
「そういう言い方は……」
「わたしだったら構わない。警官というものはそういうものなのだろう。わたしが同じ立場だったら、事件のことを話すより自分の力を信じてわたしの過去を話すだろうから」
 加佐村は本当に面白くなさそうな表情になった。探偵などという人種にこんなことを言われたのは初めてのことなのだろう。確か階級は警視だといっていた。もしかしたら警官になってから、人に風上に立たれるといったことはなかったのかもしれない。よく見てみると我の強そうな感じではあった。
「そんなことよりも事件のことだ。加害者は何を狙っていた」
「被害者が二人ともこういう状態だ。推測しか言えんがそれでも構わないか」
 わたしは黙って煙草を銜え、火を点けた。煙を深々と吸い込む。気持ちいいくらいの刺激が肺一杯に広がった。
「犯人の狙いは塩村の持っていた研究会用の論文だ。相羽に対して塩村は非常に重要な論文だとしか話さなかったそうだが、それにしてはアタッシュケースの扱いがぞんざいだったと証言している。その内容についてJ&Wメディカル・ジャパンの広報に問い合せてみたが、塩村が責任者である医療プロジェクトに関しては警察といえどもノーコメントだそうだ」
「ちょっと待て。わたしは依頼人が事務所を訪れたその日に護衛についたわけか」
「そういうことになるな。その辺りの詳しいことは相羽に聞いてくれ。その方がお前にとっても分かりやすいだろう」
 加佐村はそこまで話して、フィルターの近くまで吸っていた煙草を慌てて灰皿に捻込んだ。わたしはそれを見ながら煙草を吸い、灰を落とす。頭の中では充分整理をつけているつもりだったが、加佐村の話は何も知らないに等しいわたしの脳の許容量を容赦なく圧迫していた。
 加佐村、相羽、塩村、西垣、探偵事務所の依頼契約書。
 話を繋げていくために必要なものが多過ぎる。彼らがわたしの聞きたい話を必ずしてくれるとは限らないし、第一わたし自身が何を聞けばいいのか分かっていなかった。自然聞くことは事件のこととなる。西垣はそんなわたしの態度を肯定してくれたみたいだが、わたしにとって記憶を取り戻すためには他に選択肢がないのだった。
「依頼があって、すぐに護衛がつくものなのか。下調べとかしそうなものだが」
「俺は探偵じゃないからな。営業方式の詳しいことは知らん。しかし、助けを求めて飛び込んできたものをこれから調査をするからと追い返すのも人情がないというものだろう。それに、塩村が出席する会議はその当日だった。調査する時間などなかったはずだ」
「その挙げ句に二人まとめて事件に巻き込まれてこの様か」
「問題なのはそこだ。深夜、詳しい時間を言えば午前一時半だが、新宿三井ビルの隣にあるロイヤルホストの前に塩村がなぜいかなければならなかったのか。それさえ分かれば事件は九割方解決する。誰かに呼び出されたのか、それともはじめからの予定だったのか、単なる気紛れか。塩村の私物についてはすべて調べたのだが、その点についてはまったくの不明だ」
「それでわたしの私物も調べたわけか」
「お前は業務日誌をつけていた。いつどこで誰と会ったかといった簡単なメモだ。ほとんどが京王プラザ内で誰に会ったかという記述ばかりだが、一番最後にロイヤルホストの件が記されている。まったくといっていいほど役には立たないものだったが」
「私物が返ってこないのは警察が証拠品として扱っているからか」
「まあ、話を聞け。お前は会議にも塩村の友人として出席し、あの日一日塩村に一番長く接触した人間だ。そのお前が彼の行動についてメモをつけている。出会った人間と身分、研究分野についても詳しい。これは重要な証拠になる。その中の一人が塩村の論文の内容を知り、奪った可能性もあるからだ。警察ではその方面からも捜査を進めている」
 いくら待っても返ってこないと思ったら、わたしの私物は警察に証拠品として押さえられていたわけだ。それも捜査方針を決定するような重要な証拠として。メモでさえそうなのだ。殴られたわたしの血がついているはずの服や被害者を特定する免許証、領収証が詰まっているはずの財布などが返ってこないのは警察にとっては当然のことなのだろう。
 西垣が治療上のことで私物を研究しているのかと思っていたが、よく考えてみれば、記憶喪失を治すのに財布の中身まで知る必要はない。もっと早く気付くべきだった。そうなっていたとしてもまったく役には立たなかっただろうが。
「それでわたしに何をしろというんだ。ホテルで会った人間一人一人にあって話を聞けというのか」
「そのことについては捜査本部で検討中だ。こちらの先生も今の状態なら人を付ければ、出歩くことも可能だといっていたからな」
「現場にいくことも塩村に会うことも可能なのか」
「現場につれていくことは可能だろうが」
「塩村さんに会うことは無理ですね。ただでさえ意識不明の状態ですから」
 ふうと息をつく。それから煙草を吸い、灰皿で火を消した。ここから外に出られることは分かった。今までのことを考えれば格段の進歩と言えるだろう。今までは外部との接触といえば枕元のボタンで看護婦を呼び出すことしか出来なかったのだから。警察の人間がつくとはいえ、自分の好きなところにいける保証が出来たわけだ。
「それなら今から現場にいっても構わないのか。事件が起きたのは深夜のことだ。同じ見ておくにも深夜の現場を見ておくほうが参考になるだろう」
「医者としてはあなたの健康を考えて、無理だとしか申し上げられません。実際この面会も何度も加佐村さんに遠慮して頂くよう申し上げたくらいですから。命に別状はないとはいえ、あなたは頭に全治二週間の裂傷を負っているんですよ」
「分かっているさ。しかし、深夜の現場を見ておきたいのも事実だ。それが記憶を取り戻すたった一つの方法だとは思わないが、治療のための一つのやり方であることには違いないだろう」
「そうですね。外科の担当医と相談してみましょう。それで傷に差し障りがないと判断できれば外出許可を出しましょう」
「感謝する」
「ただし、それは二週間後に傷が治ってからということになるかもしれませんよ」
 そう言われてしまうと仕方がない。病院というところは病気や外傷を治すところであって、警察の捜査に協力するところではない。当たり前のことだが、実際西垣に言われてみると思っていた以上の重みがあった。
「そのときを気長に待つことにするさ。どうせ二週間だ。たいしたことではない」
「笹神。勘違いするな。医者は深夜の外出は駄目だといっているだけだ。つまり、昼間の外出は構わないわけだ。さっそく明日から捜査に協力してもらう。案内人はそうだな。新宿署の烏丸をつけてやる」
「烏丸?」
「心配するな。お前のよく知っている警察の人間だ。といっても記憶のないお前には分からないだろうが。心配することではない」
 加佐村は言い切り、これ以上話すことはないといった感じで立ち上がった。下から見上げてみると背が高いだけに威圧感がある。わたしには加佐村自身が警察権力に見えた。
「それでは笹神さん。明日の午後から外出を許可します。満足のいくまでという時間はないでしょうが、一昨日、あなたの歩いた道筋を辿ってみてください。記憶の糸口が見えてくるかもしれませんから」
 わたしがうなずいたとき、加佐村はもう部屋の外に出て姿は見えなかった。明日の打ち合せも何もない。失礼な人間だった。それでもわたしにはこれから先もずっとこの男と付き合っていかなければならない気持ちの悪い未来が見えていた。

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