10

 カリヨン橋から眺める新宿の街。
 夕暮れが近い街の人の流れは隔離された病院内とは比べものにならない。まるで、新宿中の人間がこの場所に集まってきたかのようだ。この中から中嶋はわたしを見付けなければならない。不可能とまでは言わないが、この人混みを見ていると、かなり難しいことではないかと思える。カリヨン橋の上で待ち合わせをしている人間が少ないのは救いだが、それでも、帽子と包帯だけの目印というのは心許ないような気がした。
「何か心配事か」
 心を見透かしたような田中のことばに首を振り、中嶋が利用すると言っていた小田急の西口を見つめる。駅ビルの中に入る人間よりも、外に出ていく人間の方が多い。夕刻の通勤ラッシュなら逆のはずと考えて、今日が土曜日であることを思い出した。吐き出されてくる人たちは、おそらくは会社から帰る人間ではない。これからこの街で、気の合った仲間と楽しいときを過ごすために、わざわざ出てきたのだろう。遊興の場が多いこの街だ。人が集まるのも当然のことだった。
 その人混みに混じって、お互いに仕事で会わなければならない人間がいる。わたしと中嶋だ。田中も含めれば三人になる。それでも遊びが目的の人間と変わりがあるわけではない。その証拠にわたしはこの人混みにいるかもしれない中嶋を見分けることが出来ない。相手がわたしの姿を見付けて、声をかけるまで、わたしは彼と話すことも出来ないのだ。そのことに気付いて、わたしは小さくため息をついた。
「やっぱり、何か心配事か」
「いや。なんでもない」
 わたしは首を振り、ラークを銜えて、火を点けた。イライラしてるわけではない。手持ち無沙汰な時間を過ごすためだ。そう言い聞かす。
「お前が煙草を吸うときは集中するときだ。昔からそうだった。なんでもないときに吹かすわけがない」
「そうだったか」
 言われてそうかもしれないと考える。煙草が欲しいときは、いつも何かを考えるときだった。病院にいるときは記憶喪失のことを、病院から出た後は襲撃事件のことを考えている。ずっと考え続けて、それでも何も解決しない。わたしが天才的な探偵だとは思わないが、五日も考え続けて、何も結論が出せないとは。中嶋に会えば、なんらかの変化はあらわれるだろうが、期待は薄い。しかし、何も掴めなければ、わたしはまったくの無能ということになる。それだけは、わたし自身の奥底に眠るプライドが許さないことだった。
「付き合いが長いからな。笹神が考えていることくらいは分かるさ」
 田中のことばに振り返ると、若い痩せた男が近付いてくるところだった。土曜日だというのにきっちりスーツを着込み、レジメンタルのネクタイをしっかりと締めている。髪は癖っ毛が強く、背はわたしよりも少し高いくらい。百七十センチ。普通の体格と言ってよかった。
「失礼ですが。お二人とも相羽探偵事務所の方ですか」
「ええ。わたしが笹神。こちらが同僚の田中です。あなたは?」
「初めまして。J&Wメディカル・ジャパンの中嶋といいます。塩村のことで何かお話があるそうで」
「はい。依頼のことで少々。塩村さんを守ることが出来なかった上に、命に関わるようなことになってしまって。大変心苦しいのですが、依頼料の返還とか、たった一日のことですが、その報告書とか、いろいろと後始末をすることが多くて。申し訳ありません」
「そんなことは構いませんよ。ぼく自身、チーフの事件には興味がありますから。ぼくが話したことで、この事件が解決するのなら、幾らでもお話します」
 中嶋の頬が心なしか紅潮しているように見えた。力が入っているのか、昼間に比べると強さを失っている太陽の光線の具合か。協力的なのは結構なことだが、わたしの方が乗り気になるわけにはいかない。これはあくまでも後始末であって、依頼人がいる調査ではない。金にならない調査はしない。それが、事務所の建前だった。そのことは中嶋に印象付けなければならない。彼の口から会社にこのことが伝われば、横槍が入りかねない。探偵事務所はあくまで営利機関であって、税金で賄われている警察とは違うのだ。これ以上、信用を落とすことは出来ない。
「警察にはこの件についてお話をされたのですか」
「はい。すべての所員が事情聴取を受けました。犯人扱いはされませんでしたが、あまり気持ちのいいものではありませんでした」
「そうですか。分かりました。では、少しお話を伺いましょうか。静かな喫茶店を知っています。そちらに移動しましょう。構いませんか」
「いいですよ。どこにいきましょう」
 わたしは煙草をカリヨン橋の欄干でもみ消し、西垣にもらった携帯用の灰皿に入れた。同時に、田中に合図を送る。田中は小田急ハルクの方に向かって歩きだした。わたしは知らないが、その方角に目的の店があるようだった。
 歩いたのは五分くらいだろう。銀行が集まっているブロックを抜けたところにその店はあった。小さな事務所が入っている雑居ビルの地下で、通り一本挟んだだけで、人気がない場所だった。商売毛のない小さな看板にロベリアと書かれていた。
「ここでいいのか」
 田中がうなずく。それを確認して、わたしは中嶋の肩を押して、階段を下りた。ドアを押し開ける。迎えてくれたのは愛想のない中年の男だったが、コーヒーのいい香が店のなかに染みついていた。
 体が自然に動いて、一番奥の席に腰を下ろした。中嶋が上座、わたしがその正面、田中が通路側の椅子という形。わたしが探偵として確実に動けない以上、こういう形が一番好ましいと言えた。
 注文を取りにきた店長にブレンドを頼み、お互いの名刺を交換した。それによれば、中嶋の肩書きは『J&Wメディカル・ジャパン八王子研究所第三研究室特別プロジェクトチーム』となっていた。塩村の肩書きが同チームシステムチーフとなっていたから、中嶋が塩村の部下であることは間違いはなさそうだった。
 しばらくこのところの暑さの話をし、注文したコーヒーがきた時点で、本題に入った。まずは塩村の研究内容の話だった。
「あまり詳しくは話せないのですが」
「大まかな部分で結構です。雑誌で塩村さんの専門がウイルス学ということは読んでいますが、それ以上のことがまったく分からなくて。なにしろ、専門外のことですから」
「塩村は去年まで大学のオーバードクターでした。オーバードクターというのは大学院を出た無給副手のことで、研究室に残って研究に携わる人のことです。それを新薬の開発という名目で、来てもらったわけです。塩村の研究と我々の新薬開発の方向性が一致したというのがその理由ですけど」
「研究はいったい何を」
「簡単に言えば、エイズです。AZTに変わる新しい抗HIV剤の開発をしていました。詳しいことはここではお話できませんが、塩村はその新薬の発表のために研究会にきていました」
「ということは、AZTには何か人体に悪影響を及ぼす副作用でも」
「とくに重いものとは言えませんが。軽いものはあります。実験の第一段階では、好中球の減少と貧血が見られました」
「好中球とは?」
「白血球の一種と考えてください。つまり、この副作用によって白血球と赤血球がともに減少したということになります」
「それでは薬になりませんね。それで、新薬の開発を急いでいたわけですか」
「それは違います。AZTは悪い薬ではありません。もう一度確認しておいてもらいたいんですけど、この副作用が起こったのは第一段階の臨床試験のことです。そして、その理由も用途依存性の副作用ということが分かっています」
 中嶋の話はどんどん専門的なことに入っている。彼は日常からこのようなことばに馴れ親しんでいるのだろうが、聞かされるわたしたちとしてはそうはいかない。ポケットから手帳とボールペンを取り出し、ページを開いた。とりあえず、今まで聞いたことを要約して書き付ける。塩村の引抜きのこと、AZTのこと、それに関わる副作用のこと。隣を見ると田中が同じようにメモを取っていた。コンビを組んでいる二人が同時にメモを取ることはおかしいかもしれないが、わたしの記憶が当てにならない以上、田中はそうする必要がある。わたしは話を続けた。
「それが分かったのなら問題は解決ですね。不治の病といわれているエイズもAZTがあれば、治ってしまう」
「そう簡単な話ではありません。AZTは非常に大量の投与をしなければ、有効濃度の水準にはならないからです。その結果として、不眠、吐き気、頭痛という強い副作用が起こるわけです。しかし、HIV感染者全体がからだの不調を訴えていることを考えれば、当然のこととも言えるのです」
「それで」
「我々はAZTよりも少ない投与量で、HIVを殺すことが出来る新薬の開発に行なってきました。その第一段階の研究成果が、塩村の持っていた論文です。まだ試験管内だけの実験に過ぎませんが、AZTよりもはるかに低い濃度でHIVに対する効果はあらわれています。現在臨床で認められている薬はAZTだけですから、我々の新薬が使用に値すると分かれば、エイズ治療については一層の進歩となります」
「確かにそうですね。でも、それを発表するということはJ&Wメディカル・ジャパンにとって大きな損益なのではありませんか。新薬というものは独占してこそ価値があるのではないですか。それがエイズとなると尚更でしょう」
「そうですね。普通の薬の場合はそうでしょう。しかし、エイズとなると扱いが変わってきます。これは一製薬会社で扱うには大き過ぎる問題です。開発の遅れは、多くのHIV感染者の命に関わることですからね。その重さを考えれば、他の製薬会社と協力して開発した方が得策と考えたわけです」
「それはどなたの考えですか」
「チーフです。塩村が会社の上層部を説得して、日本国内での実験の協力を受けることを承認してもらったわけです」
「誰も反対はしなかったのですか」
「多少の反対はあったと思います。しかし、我々の会社はまだ進出してから日が浅く、日本国内での基盤がしっかりと確立していません。本社のあるアメリカで実験するという考えもありましたが、日本での臨床試験の協力体制と基盤を強固にするためにこの研究は発表されることになりました。これは塩村一人の考えではなく、会社という全体組織の考えなのです」
「そうですか。一つだけ、お聞きしてもよろしいですか」
「どうぞ」
「あの弾、京王プラザホテルに集まった研究者の面々は、塩村さんが発表する論文の内容について知っていたのでしょうか」
「知っていたと思います。研究会のプログラムには我が社の新薬に関する研究内容が簡単に触れられていましたから」
「分かりました」
 うなずいてはみたものの、なにかがおかしい。中嶋の説明は筋が通っているように思える。しかし、それをそのまま信じるならば、塩村は襲われることはなかったはずだ。研究会に集まっていた研究者の面々は塩村の論文が発表されることを知っていた。発表されたものには秘密という価値はなくなる。そしてそれは、わざわざ塩村を殴らなくても、時間さえ来れば手に入れられるものだった。犯罪者の汚名を覚悟して、手に入れるべき代物ではなかったのだ。医学的に幾ら価値のあるものでも、発表の場がなくなってしまってはどうしようもない。それならば、塩村に協力して、更に完成された新薬を開発する方がよりメリットがあるのだ。
 逆にメリットがあるところを考えれば。J&Wメディカル・ジャパンの犯罪ということか。しかし、それも考えにくい。アメリカの本社で臨床試験を行なえば、確かに利益は独占できるだろうが、中嶋の説明では、日本での活動を重要視しているようだ。それならば協力者として、日本の医大とのパイプを太くするほうが得に決まっている。わざわさ自社の研究員を殴って、知名度を挙げる必要もない。それどころか、刑事事件となって困るのは会社組織のはずだ。人一人守れない製薬会社の薬を一般消費者が買うわけもない。
 それでも、塩村は襲われ、研究論文は奪われた。そこになんらかの矛盾を感じる。わたしの記憶が戻れば、この事件は簡単に解決するのだが、今それを願うのは無理というものだ。一つ一つ可能性を潰していかなければならない。
 いったい誰が襲ったのか。それよりも、塩村はなぜ相羽探偵事務所の門を叩いたのか。護衛のプロである田中を指名せず、わざわざわたしを指名したのはなぜか。
 考えてみれば、理解出来ないことが多過ぎる。謎は中嶋の説明を聞いても、深まるばかりで、記憶も専門知識もないわたしには解けないものになっていく。わたしは犯人を見付けることが出来るのだろうか。
「あの」
「なんでしょうか」
「電話でお話を伺ったときから疑問に思っていたのですが」
「なにか」
「笹神さんは塩村を襲った犯人を見ているということでした。それならば、ぼくの話を聞かなくても、警察に協力して犯人逮捕したほうが、よりよい結果が得られるのではないですか」
「わたしは依頼の後始末といったはずです。依頼料の返還、それに伴う報告書の作成。依頼任務の失敗は事務所自体の信用問題ですから、慎重に扱っていく必要があるわけです。分かって頂けますか」
「それは分かりますが……」
「警察に対しては最大限の協力を行なっています。ただ、わたしの証言能力は非常に疑問視されていまして。犯人を見たことには間違いはないのですが、外傷による記憶の混濁という厄介なことになっていまして。今のところ、わたしの証言は保留されているということです」
「しかし、電話でのあなたは……」
「その点を強調したように聞こえたのなら謝ります。あくまでも中嶋さんにきて頂いたのは、塩村さんの依頼に関することだけなのです」
「それでは、ぼくがくることではなかった。広報の仕事ではないですか」
「確かにその通りです。結果的に騙した形になったのは申し訳ないと思っています。しかし、この事件に関しては非常にデリケートな問題を含んでいます。御社の広報では塩村さんの当事務所に対する依頼に関しては関知していないような口振りでした。ということ一一週間分の護衛料が丸々中に浮くことになります。わたしどもの事務所では決して受け取れない、J&Wメディカル・ジャパンでも関知しない金となると。それはいったいどこから出た金なんでしょうか」
「そんなことを聞かれても」
「筋からいけば、塩村さん本人に返すことが一番の方法です。しかし、今はそれは出来ない。わたしも警察も本人とは会えない状態です。彼が意識を取り戻せば、簡単な問題なのですが」
 わたしのことばに、中嶋は考え込んだ。わたしはそれを見ながら、コーヒーをブラックのまま口に含み、苦みと渋みをたっぷりと感じる。わたしの頭の中で脳が忙しく回転を始めた。
 塩村が仕事を理由に探偵を雇ったのはなぜか。少なくとも中嶋の話では、彼の論文を狙う人間はいなかった。それにも関わらず、彼は依頼書に論文及び資料を守ってほしいと書き込んだ。わたしを名指しで。
 わたしが護衛を雇うとしたらどう考えるだろう。わたしの扱うものは会社の命運を握るかもしれない研究論文。会社の上層部の許可を得ているとはいえ、一人で持ち運ぶには心許ない。民事不介入の警察に頼むことは出来ない。探偵なら金で守ってくれる。ちょうどいい具合に新宿には探偵事務所がある。
 そこまで考えて、わたしは塩村が相羽探偵事務所を選んだ理由が分からないことに気が付いた。
 飛び込みということは充分に考えられる。新宿署に話を持ちかけ、体よく断られて、青梅街道に出たときに相羽探偵事務所の看板が目に入った。それは考えれられないことではない。しかし、探偵事務所、興信所の類は西新宿に幾らでもあるのだ。偶然としては考えにくい。
 それよりも。わたしだったら、八王子の研究所を出る時点で護衛を雇っている。郊外とはいえ、八王子に興信所がないということはないだろう。信用に値するところがないと仮定しても、自社の同行員をつければ済むことだ。その方が金学的な負担は少なくて済む。しかし、塩村は電車で二時間はかかる八王子から新宿まで一人で来ている。八王子で危険を感じず、新宿で危険を感じる理由があるのだろうか。
「一つお尋ねしますが」
「なんですか」
「塩村さんが今回の研究会に関して、襲撃される危険の可能性について洩らすことはなかったですか。どんな些細なことでもいいのですが」
「そういうことはなかったと思いますが」
 そう答えてから、中嶋は頭に手をやり、少し考えて、口を開いた。
「そういえば。チーフに同行員をつけたほうがいいんじゃないかと進言したことがありました。そのときは、塩村は危険はまったくないし、それは経費の無駄だと」
「経費を浮かして、探偵を雇う。矛盾していますね」
「その通りです。しかし、京王プラザホテルでの一泊と護衛料金を引き合わせて考えてみれば……」
 わたしは手を挙げて、中嶋のことばを遮った。考えがあってのことではない。ただ、確認のためだった。
「田中。つまらないことを聞くが、京王プラザのツインの料金は幾らだ」
「そんなに高くないだろう。二万七千円から三万九千円。四万はかからない。ちなみにシングルで泊まる場合は、二万二千円から三万六千円。それほど違うわけではない」
「つまり、探偵事務所の基本料金一日一人拘束で二万円プラス必要経費を考えれば、塩村の言うことはまったく根拠のないことになるな」
「そうだな」
「そこのところは目立つようにメモをとっておいてくれ。考慮の余地がありそうだ」
「いったい、どういうことなんですか」
「塩村さんが探偵を雇うことをどこで決断したのかは分かりません。研究会に出かける前だったかもしれないし、電車に揺られている最中だったかもしれない。しかし、彼の考えの中には同僚がどうこうすることは入っていなかった。経費から考えても、五千円から一万七千円の差額でしかない宿泊費を無駄に思い、一日辺り二万はする護衛を一週間雇うことを実際に選んでいる。これは明らかに無駄です。このことを合わせて考えれば、塩村さんは自分が顔見知りの誰かに襲われることを研究会の前に知っていたということになります。しかも、相手は会社に知られてはならない人間だった」
「それはいったい……」
「まったく想像もつきません。これはあくまでも推理したものですから。こればかりは、塩村さんが意識を取り戻して、自ら話さない限り、分からないことでしょうね」
「それは笹神さんが調べることではないのですか」
「残念ながら。それは事務所の仕事ではありません。わたしは病院に入院中に嫌というほど推理小説を読まされました。その中で、探偵という職業は、自らの誇りのために無報酬で事件を追いかけ、解決しています。わたしはそのことは好ましく思うし、間違ってはいないと考えています。しかし、現実を考えてください。わたしどもの事務所では所長を含めて……」
「七人だ」
「七人の調査員で行動しています。大抵の依頼は二人がコンビを組みますから、最大で三件の依頼を熟すのが精一杯ということです。このことは分かってもらえますか」
「なんとなくは?」
「護衛だけを考えれば、六人を拘束して一ヵ月休みなしに働いたとして、三百六十万しか利益が上がらないことになります。必要経費は無視するとしても、維持費、人件費を考えれば、ぎりぎりの線でしょう」
「そうですね」
「実際はこれはあくまでも最低のラインですが、探偵事務所というのは一般の人が考えているほど楽な商売ではないのです」
「つまり、この事件は捜査してもらえないということですか」
「捜査ではなく、調査です。まあ、それはことばの使い方で、どうでもいいことですが。依頼のない事件に対しては調査を行なわないというのが、わたしどもの事務所の方針でもあります」
「しかし。笹神さんも事件の被害者の一人でしょう。このまま警察に任せておいて、迷宮入りした場合、悔いは残りませんか」
「わたし自身の気持ちと、事務所の方針は別です。あなたがわたしどものような零細事務所の所長だったとして、そのうちの一人が無報酬で調査を行なっている。その事実を容認できますか」
「それは……」
「中嶋さんが考えていることもよく分かります。卑しくも探偵と名乗っているものが、事件を目前にして、調査を放棄している。不思議に思われることでしょう。わたし自身でさえそう思います」
「それならば、なぜ?」
「説明は充分にしたはずですが」
「ぼくが言っているのは、塩村のことで研究所に電話をかけ、話を聞きたいといってきたことです。その中で犯人を見ているという表現まで使った。誰でも、あなたがたが事件の追跡調査を行なうと考えるんじゃありませんか」
「そうですね。そういう表現でしか、話が出来なかったことは残念に思います。しかし、わたしは最初に断っていたはずです。依頼料の返還と報告書の作成のために協力してほしいと」
「それならば……」
 わたしには彼が何を言おうとしているのか想像がついた。だから、手で彼のことばを制した。彼の権限で、塩村の金を使わせるわけにはいかない。そうすることは、彼の研究者としての人生を左右することにもなりかねない。避けるべきことだった。
「じゃあ、どうすればいいのですか」
「警察に任せるというのが一番いい方法だと考えています。最近は猟奇事件が増え、未解決の事件も多くありますが、それでも警察が優秀なことには変わりありません。それに、知り合いの警官からは、この件に関しては犯人が捕まることは規定の事実だと聞かされています。中嶋さんも犯人が捕まるのなら、警察であっても、探偵であっても構わないのではないのですか」
「それはそうですが」
「だったら、警察を信用することです。わたしも記憶がはっきりし次第、警察に協力します。医者によれば、この記憶喪失は一時的なことだそうですから、犯人逮捕にはそれほど時間はかからないと思います」
「では、どうしても」
「中嶋さんの気持ちはよく分かります。被害者であるわたしどもの事務所が、信用を回復するために調査を行なうというのも、一つの筋ではあるでしょう。でも、考えてみてください。現実にはわたしどもに事務所には塩村さんが残していった返還しなければならない依頼料があるだけで、J&Wメディカル・ジャパンは警察に一任すると宣言しているのです。事務所が調査をする根拠はどこにもないのです」
 中嶋は押し黙り、コーヒーに口をつけた。彼と塩村の関係がどうなのか分からないが、少なくとも敵対している感情があるとは思えない。話を聞いている限り、彼が襲撃犯人ということも考えにくかった。今ここで判断するのは危険なことだが、彼には人を殴る理由はない。
「しかし、どうしてもというのなら」
「調べてもらえるんですか」
「いえ。警察に協力することは出来るという意味で。それでもよろしいのなら、少しお話をお聞かせください」
 餌を投げ付けた分、がっかりしたように見えたが、それはわたしの目のせいかもしれない。煙草に火を点け、頭を上げたとき、中嶋は落ち着いていた。
「二つだけ聞かせてください。よろしいですか」
「はい。何でも聞いてください」
「会社から発表会に出席されたのは、塩村さんお一人だったのですか」
「そのはずです。うちの会社には八王子にしか研究所はありませんし、そこで新薬のせいかが上がっているのは塩村の研究室だけでした。それに今回の研究会は抗HIV剤だけのもので、それ以外の部署から出席しても仕方がないものだったから」
「研究の対象が違うということですか」
「ウイルス学を専門としている部署はたくさんあります。現代のほとんどの病気は病原性のウイルスが引き起こしているといわれていますから。しかし、今ほとんどの部署が世間を賑わしている病原性大腸菌の研究にかかっていまして、研究会に出席する余裕はなかったはずです」
「それでは、例えば、塩村さんのことを快く思っていなかった研究員がいたとしても、彼を襲撃することは出来なかったということですね」
「そこまでは分かりませんが。しかし、塩村があの時間にあの場所にいくことを知っていた人間はいないと思います」
「そうですか」
 うなずいては見たものの、わたしには別の考え方があった。あの場所に呼び出すことはそんなに難しいことではない。部屋に電話を掛けるなり、前もって約束していれば、簡単にあの場所に呼び寄せることが出来る。しかし、それでも、わたしという護衛の人間から塩村が離れたことが気にかかる。普通の人間なら、敵と思っている人間に対してはなんらかの警戒心を抱くものなのだ。まして、深夜ともなれば尚更のこと。この点については態度を保留しておくというのが正しいようだった。
「もう一つだけ。よろしいですか」
「はい。ぼくに答えられることなら」
「塩村さんの交友関係を詳しくお聞きしたいのです。特に親しかった女性関係を。分かる範囲で構いませんから」
「親しかった女性ですか。チーフはほとんど研究一筋の人でしたから。大学時代から、ずっとそうだったそうです。研究室にも女性はいませんし。付き合っていた女性がいないことはなかったでしょうが、ぼくや同僚にそのことを話すことはありませんでした。お役に立てなくて、申し訳ないのですが」
「別に構いませんよ。警察でも、塩村さんの交友関係の捜査では非常に苦労しているそうですから。本庁から応援が来て、捜査本部まで立っている事件に対して、一介の探偵が情報を先取りすることなど出来るわけもないですし。あまり気にしないでください。捜査の参考になることがあればと聞いてみただけですから」
「申し訳ないです」
 もう聞くこともなさそうだった。後は警察の仕事だ。わたしたち探偵が行なう仕事はもっと別のところ。塩村を襲った犯人が彼に対して殺意があったのかどうか。考えることだった。護衛については警察がやってくれる。一人の制服警官というのは何とも心細いものだが、それでもいないよりはまし。複数と思われる犯人も、病院内部まで襲ってくることはないだろう。入院病棟への出入りは厳しくチェックされる。わたしのような探偵が手を出すことではない。
「これで」
「もういいんですか」
「ええ。充分情報は頂きました。エイズに関してのいい勉強にもなりましたし。治る病気だと分かっただけでも収穫でした」
「そう言ってもらえれば……」
 そのことばを聞いて、わたしは思いついたことがあった。小さなことだが、聞いておかなければならない。
「もう一つだけいいですか」
「なんでしょうか」
「御社のことです。言えないことならば構いません。しかし、大変重要なことです。よろしいですか」
「はあ」
「エイズの新薬というからには臨床は行なわれていたことでしょう。その病院を教えて頂けませんか」
「それは……」
 答えようとして、中嶋は急に黙り込んだ。おそらくは企業秘密という奴なのだろう。聞かせてもらえないというなら、それはそれで収穫だった。
「結構です。大変参考になりました。これからも八王子の警察に色々聞かれることもあると思いますが、その時は正直に答えてください。それが塩村さんの事件を解決する一番の近道になりますから」
「役に立ったのでしょうか」
「ええ。わたしどもの事務所に関しては完璧な報告書が書けます。これは警察とJ&Wメディカル・ジャパンの広報部に提出しておきますから、捜査のなんらかの参考になると思います」
「そうですか。それならいいのですが」
「深く考えないほうがいいです。塩村さんが襲われたのはあなたのせいではない。わたしが任務をきちんと遂行しなかったためです。責められるのはわたしであって、あなたではない」
「そう言ってもらえると少しは気が楽になります。こんなことに付き合ってもらって」
「付き合ってもらったのはわたしの方ですから。気にしないでください。それから、エイズの新薬が早くできるように祈っています。頑張ってください」
 中嶋は黙って、うなずいた。
「それではお疲れ様でした」
 わたしは彼の前に交通費として二千円を出し、伝票を取った。中嶋はそれを受けとらまいとしたが、田中が無理矢理握らせた。これ以上、J&Wメディカル・ジャパンに借りを作るのは歓迎すべきことではない。渋々といった表情で中嶋が千円札をしまうのを見て、わたしと田中は同時に席を立った。
「帰り道は分かりますか」
「大丈夫だとは思いますが」
「店を出てすぐ右にいけば、西口のロータリーに出ます。左回りにいけば、カリヨン橋から駅に出れますから、その道を通ってください。地下には外国人が屯しているそうですから。あなたのようなサラリーマンは襲われる可能性がある。それとも、駅まで送りましょうか」
「大丈夫です。それよりもチーフのことよろしくお願いします。命のことは病院に任せるしかないのでしょうが、出来ることならば犯人にそれなりの報いを受けさせたいのです。よろしくお願いいたします」
 わたしはうなずき、中嶋も席を立った。田中が何事か声をかける。それを聞いて、中嶋は小さくではあるが笑顔をつくった。
 しかし、わたしはそんなことを気にする余裕はなかった。中嶋の証言はそれほど重要な意味があった。今の警察の捜査では犯人を突き止められない。わたしはどうしても記憶を取り戻す必要があった。
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