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 強い日差しと蝉の鳴声。
 目を覚ましたわたしの感覚にまず飛び込んできたのはその二つだった。いくら暇だからといって、よりにもよってこんな暑い時期に蝉も鳴くことはないだろうに。薄いレースのカーテンが引かれた窓の外では時雨のように蝉が鳴いている。まるで地面から沸き上がってくるかのようだ。逃げるつもりはなかったのだが、わたしは無意識に寝返りをうち、窓から視線をそらした。頭がずきんと痛む。気になって触ると布のようなものがぐるぐると巻かれていた。
 そこで初めてわたしを取り巻く状況に気が付いた。誰もいない真っ白い部屋。わたしはたった一人、その部屋の中でベッドに寝転がっている。どこかで見たことのあるようなパイプベッド。糊のよくきいた純白のシーツと柔らかいタオルケットが肌に気持ちいい。それ以外で調度品と呼べるものはなかった。ベッドの傍らにパイプ椅子が二つ。枕元のテーブルに水差しとコップ。新聞がきれいに折り畳んで置いてある。
 痛む頭を抱えて身を起こし、水差しからコップに水を注いで一気に飲んだ。あまりうまくない。というより水という感覚が感じられない。湯冷ましのようだった。味覚に自信があるほうじゃないが、わたし好みの味ではないことは確かだ。
 これ以上水を飲むことはあきらめ、わたしは新聞を取った。今日のものかどうかは判断できないが、日付は水曜日のものになっている。社会面が表になるように畳まれていて、一部の記事が赤で囲ってあった。一昨日の深夜、ファミリーレストランの入口付近で二人の人間が襲われた事件だった。被害者の名前は伏せられていて分からないが、男と女の二人連れということだけは理解できた。男の方は意識不明の重体で、女の方も頭を殴られていて全治二週間の怪我。どうやら加害者の目的は男の方だったらしい。女の方は巻き添えを食ったようだった。運が悪いことだ。しかし、この新聞が枕元にある理由がまったくない。というよりも、この記事をわざわざ赤で囲んでわたしに見せる意味がまったく分からない。心当たりはなかった。
 心当たりといえば、わたしがここにいる理由も分からなかった。なんだかよく分からないがわたしはここにいる人間ではないような気がする。わたしはもっと……。
 そこまで考え、わたしはわたしが誰だか分からなくなった。急に不安が沸き上がってくる。どうしてここにいるのか。それどころか名前も職業も友人の名前も何も思い出すことが出来ない。頭の中にあるのはすっぽりと抜け落ちたような空白。それを埋めるように蝉があらんかぎりの声で鳴く。わたしは本当に怖くなって耳を塞いだ。そんなことをしても不安が拭い去れるわけではない。わたしが何者であるか。それを取り戻さない限り、わたしはわたしではないのだ。たとえ、どんなに嫌な人間であったとしても。
 記憶喪失。
 そんなことばが急に思い浮かんだ。気にしたこともなかったことばのはずだが、自分の身にいざ起こってみるとどきどきするほど気になるものだ。記憶が抜け落ちた経験は今までなかったと思うが、こうなってみると自信がまるでなかった。
 わたしは昨日までいったい何をしていたのか。ここが病室であることは薄々気付いていた。頭に怪我を負っていることも。わたしが犯罪に巻き込まれたのならすぐに警官が話を聞きにやってくるだろう。知り合いの警官というものがいるとは思えないが、わたし自身まっとうな人間ではないとは言い切れない。こうして一人で病室に入れられているという状況は色々と考えさせるものだ。犯罪者かもしれないし、重要な証人かもしれない。扉を開けるとあっという間に警官に取り押さえられるのかもしれない。窓には鉄格子がはまっていないようだが、蝉がとまって鳴いているはずの木が梢しか見えないことから相当高い階にあると想像できた。
 逃げ道はない。
 どうして逃げなければならないのかまったく分からないが、枕元にある新聞記事と誰もいない状況がわたしを不安にさせた。あるいは病院にいるという状況のせいか。
 わたしは改めて病室を見回したが、わたしの身元を証明するような手がかりとなるものはなに一つなかった。わたし個人の私物というものがあるはずだが、少なくともこの部屋にはなかった。わたしはこの病院のものと思われる大柄な縞模様のパジャマを着せられている。それならば、わたしがこの病院に運び込まれるまで着ていたはずの服はいったいどこにしまわれているのだろうか。それを見付けだせば少なくともわたしの名前くらいは分かるような気がした。
 こんなとき。普通の病人ならどんな行動をとるだろう。わたし自身記憶がないから、入院したという覚えはない。風邪をひいたときくらいにかかりつけの医者にいくことはあっただろうが、病院という閉ざされた空間で生活するという経験はわたしを非常に戸惑わせていた。何をしたらいいのか分からないということはひどくわたしを困らせる。
 このまま黙って、部屋の外に様子を見に出ていくべきだろうか。それとも。人が来るのを待つべきか。
 わたしの頭の感じからして怪我をしていることは分かっている。包帯が巻かれているということから、きちんとした治療を受けたことは間違いないだろう。そして、陽は高い。病院というところに詳しいわけではないが、待っていれば看護婦が巡回に来るのではないか。少なくともここには頭を打っている患者がいるのだ。いろいろと調べることがあるはずだった。何も分からないまま外に出ていくよりは、この部屋にいるほうがはるかに情報が集まるかもしれない。
 時間を見ようとして、それも不可能なことを知った。陽の高さから昼過ぎだろうとは思うが、この部屋には時計というものがなかった。わたしはまた不安な気持ちに襲われた。時計というものがどれだけわたしの生活に関わっていたのか。反射的に左腕を翳し、そこにあるはずの腕時計を見たが、あるはずのものはそこにはなく、包帯が巻かれているだけだった。
 わたしはささやかな自分の欲求が何一つとしてかなえられないことを知り、ため息をついた。あきらめてベッドに倒れこむ。真っ白い天井に蛍光灯が二つぶらさがっている。宙ぶらりんでまるでわたしのようだ。
 記憶を取り戻さない限り、何も始まらないことは分かっている。なにか、わたしにとって大切なもの。そんなことだけは薄ぼんやりと頭の中に残っている。失った記憶を繋ぎ合わせる。そのことだけに集中する。たちまち鈍痛がわたしの頭の芯を揺らした。
 堪らなくなって、寝返りをうち、頭の上にボタンがあることに気が付いた。押してみればなにか変化があるかもしれない。一番期待していることは大きな音が鳴ることだ。その音に気付いて看護婦が来るかもしれない。その結果わたしはまた寝かしつけられるかもしれないが、自分一人で頭を痛めるよりもましだろう。わたしは手をのばしてボタンを押した。
 期待に反して、ボタンは何も反応しなかった。音どころかこの部屋の蛍光灯も点きはしない。わたしはもう一度寝返りをうって、天井を見上げた。窓の方から小さな蜘蛛がゆっくりと天井を這っていく。その先に何があるでもないが、その動きは獲物を狙うそれだった。わたしの眼は自然にその動きを追い、蜘蛛が蛍光灯の陰に入るところまで確認した。わたしの知らないどこかで何度も繰り返した訓練のようだった。覚えていないだけかもしれない。
 そう考えて。
 わたしは再び身を起こした。そのタイミングに合わせたように部屋のドアが大きく開けられた。白い制服を身に纏った若い感じのする看護婦だった。
「笹神さん。どうかしましたか」
「笹神?」
 小柄で明るい笑顔を見せる看護婦は首を傾げて、納得がいったようにうなずいた。一瞬にして柔らかい笑顔になる。
「あなたの名前は笹神さんというんですよ。笹神涼さん。笹の葉の笹に神様の神、涼しいという字です。分かりますか」
 胸に河端と書かれたプレートを付けた看護婦は、ポケットからメモ帳を取り出し、そこにボールペンで「笹神涼」と書いた。大変親切なことでありがたかったが、わたしには字面が分かっただけで、記憶を揺さ振るものではなかった。それでも自分のことをなんと呼んでいいか分からないという真っ暗な不安からは解放された。と思う。わたしは笹神涼という名前を何度も口の中で繰り返し、脳に直接刻み込んだ。
「それで、どうかなされました? 気分でも悪いのですか」
 気分は目が覚めたときから悪い。目覚めが昼過ぎと遅かったとはいえ、ずきずきする頭に、強烈な日差しと蝉時雨が襲いかかってきては気分がすぐれないのも当然だろう。ましては記憶喪失まで患っているのだ。
「それとも、トイレですか」
「わたしはどうしてここにいるんだ」
「それは頭を怪我されて……。でもその方は大丈夫です。発見が早かったし、治療も適切でしたから。もう麻酔が切れてるから少しは頭がずきずきすることがあるかもしれませんが、命に関わるようなことはないそうですから」
「そんなことじゃない。わたしはどうして頭を怪我するようなはめになったんだ。事故なのか」
「そのことですか。そのことでしたら、後で西垣先生から説明があると思います。頭の怪我については何も心配はいらないのですが、笹神さんは記憶をなくされてますからメンタル面に通じている先生でないと詳しいことはお話できないんです。私が話すことで笹神さんにどういう影響があるのか分かりませんから」
「その先生はいつ来る?」
「そうですねえ。午後の回診が二時から始まりますから。その頃ですか。他に用事はありませんか」
 どうやらこの看護婦はわたしの名前以外の情報を教えてくれる気はないらしい。これ以上何を聞いてもうまく躱されるだけだろう。聞きたいことは山ほどあったが、それは西垣とかいう先生が来てからのことにする。不安は不安だが、陽の差し具合からして二時という時刻はそれほど遠い先のことではないはずだ。それまでには笹神涼というわたしの名前らしいものが記憶を揺さ振る可能性だってある。
「何もないなら私はいきますよ」
 そう言われて、わたしの私物のことが気になった。わたしが普通に生活していた人間なら、当然持っていなければならないものがあるだろう。時計、住所録、財布。持っていれば運転免許証か身分証明書。その他にもガムとか煙草とかの嗜好品があるかもしれない。まっとうな人間でなければ、違法ドラッグを持っている可能性さえあった。
「わたしは裸で倒れていたのか」
「いいえ。違いますよ。どうしてそんなことが気になるのですか」
「私物がないからだ。この部屋にはわたしに情報を与えてくれるものはここにある新聞しかない。ところが、わたし自身とこの新聞記事を結びつける糸をわたしは見付けることが出来ない。それよりはわたし自身の持ち物を調べたほうが記憶を取り戻すのにずっと役に立つと考えている」
「それは先生が判断することですから」
「分かった。じゃあ、一つだけ聞かせてほしい。今何時か教えてくれないか」
「一時二十分ですよ。そういえば、この部屋には時計がありませんね。先生と相談して許可が出るようでしたら持ってきますから。何もすることがなくて退屈でしょうけど、それも先生が来るまでの間ですから我慢してくださいね」
 看護婦は「お大事に」と付け加えて、満面の笑顔を見せて部屋から出ていった。ドアを開けた隙間から見えた廊下には歩行補助の手摺りがついているだけで、誰かがいるということはなさそうだった。見えないということも考えられるが、そこまで気を回すとキリがない。わたしは西垣という担当の先生が来るまで気を紛らわすことにして、もう一度枕元の新聞を取った。
 事件はあまり大きい記事ではなく、全体から見れば十六分の一くらいの扱いで三段に渡って組まれていた。場所は新宿区。西新宿のホテル街の真ん中。被害者はそこのファミレスの前で何者かに頭を殴打され、倒れていたらしい。発見したのはファミレスの客で、その時には二人とも意識はなく即座にファミレスの店員が救急車を呼んで病院に運ばれたという。警視庁と所轄である新宿署の調べによれば、男を狙った物取りの犯行である可能性が高いということだった。
 さっき記事を読んだときには深く考えなかったが、この記事の女というのはわたしかもしれない。怪我のことを考えればぴったりと当てはまる。この記事には被害者である女が記憶を失っているとは書いていないが、そんなことは病院側が発表しなければ書けることではない。ただ一つ、わたしが男と一緒に深夜のファミレスにいたという事実が気になったが、わたしも女である以上、そういう関係にある男が一人くらいいるのかもしれなかった。この記事がわたしのことを書いてあるとしての話だが。
 しかし、判断するのは情報がなさすぎた。わたしの病室にこの新聞がわざわざ赤丸をつけたまで置いてあること自体がわたしとの関連を示しているとは考えられるが、それだけのことだ。もしかしたら、わたしは発見者の方で現場の血を見てショックで倒れていたという可能性がないわけではないのだ。記憶喪失も外傷性のものではなく、精神的なもので一時的なものとも言える。看護婦が何も話してくれなかったのは気にかかるが、悪い方に考えればどんどんと事態は悪くなっていく。想像しただけでも気分が悪くなった。
 他の記事に目を通す気にはなれず、わたしは新聞を元に戻した。それから身を起こしてベッドから降りた。ベッドを回り込み窓のところにいき、レースのカーテンを大きく開けた。外にはビル街が広がっていた。いやホテル街と言った方がいいかもしれない。その中に一際大きく東京都庁が見える。ここが新宿であることは間違いなさそうだった。
 わたしは窓から離れ、外を探険してみようかともう一度ベッドを回り込んだ。蝉の鳴声が一段と大きくなった。わたしは誰かに呼ばれたような気がして振り向いた。しかし、それは窓の外からではなく廊下からだった。わたしが開けるはずだったドアは外側から開けられ、若い感じがするが少し太り気味で長い髪の男が白衣を着て立っていた。
「どうかしましたか」
 外に出るつもりだったと言おうとして、この男が看護婦の言っていた担当の医者だということに思い当った。西垣とか言う名前だった。医者ならもう少しまともな話をしてくれるだろう。わたしは曖昧に笑みを浮かべ、なんでもないことを示そうと首を横に振った。西垣はそれを見て満足したのか、わたしにベッドに戻るよう言い、病室の中に入った。清潔感はあまり感じられなかったが、若いわりには態度がしっかりとしていた。
「落ち着きましたか」
 わたしがベッドに戻るのを待って、パイプ椅子に腰掛けた西垣は話しかけてきた。記憶をなくしている人間が落ち着いているというのも変な話ではあるが、西垣がそういうことを言う以上、わたしは落ち着いて見えるらしかった。
「少しは記憶が戻りましたか」
「いや。自分の名前さえしっくりこない。笹神涼と聞かされても自分の名前なのか、他人の名前なのか分からない」
「まああれだけの傷を負われたのですから外傷性の記憶喪失が起こるのも無理はないのかもしれませんね」
「わたしに何があった?」
「新聞はお読みになりましたか」
「二人連れの男女が深夜のファミレスで襲われたという記事は読んだ。その女の方がわたしという可能性も考えてはみた。しかし、肝腎のわたしの記憶がこうではほとんど参考にはならない」
「そうですか」
 西垣は胸のポケットから赤い小さな箱を取り出し、百円ライターを付けてわたしに差し出した。どうやら煙草らしい。わたしは箱ごと受け取り、LARKと書かれた表面を見つめた。いわゆるボックス型といわれる箱で、半分程が残っている。
 わたしに関係あるものだろうか。
 そう言われると、コーヒーとか煙草とかガムとか嗜好品を好んで摂っていたような気がする。その証拠にこの箱はわたしの手にしっかりと馴染んだ。試しに一本銜え、火を点けた。自然に煙が肺に入り込み、体中を刺激した。脳が活性化する。それでも、わたし自身の記憶は戻らなかった。
「なにか」
「この煙草がわたしのもののような気がするとだけ。確かに吸っていたと思う。そうでなければこんなに体に馴染むわけがない」
「そうですか。あなたは頭よりも体に記憶を刻む人のようだ。そういう人はたくさんいますが、あなたのような若い方にはあまりいらっしゃらない。あなたの職業を考えれば無理もないのかもしれませんが」
「職業?」
「探偵だったそうですね」
 無意識にうなずきかけて、引っ掛かりを覚えた。西垣の言い方になにか違和感を感じたからだ。それは本当に確定しているものに対して念を押されるような聞き方だった。
「やはり思い出せませんか」
 わたしは首を振り、医者を見つめた。何を言っているかは理解できている。彼はわたしの職業を探偵だと言ったのだ。医者と患者についての関係において何よりも大切なことは信頼だということは記憶のないわたしでも知っている。それは患者が医者に対する意識だけではなく、医者についても同じことが言える。癌のような死病である場合を除けば、ほとんどの病院でその信頼関係を作るという行為は日常的に行なわれている。要は当事者同志がそれを受け入れられるかということだ。つまり、わたしが探偵であることを認められるかということだった。
「わたしが探偵?」
「なかなか興味深い職業だと思いますが」
 西垣は煙草を取り出したのとは違うポケットから皮製の名刺入れを出して、わたしの膝の上に置いた。見覚えがあるものではない。しかし、手に持ってみると意外に馴染む感じがした。
「これは?」
「あなたの名刺入れです。医者の立場で言わせてもらえば、あなたの巻き込まれた事件を話す前に、あなたの立場がどのようなものかを把握して頂きたいと考えています」
 はっきりとそう言う以上、西垣のことばは真実なのだろう。患者に嘘を言っても仕方がない。そのことは分かっていた。それに新聞記事に載っていることがわたしのことなら、事は警察沙汰になる。西垣がわたしに嘘を言う理由はない。
 そこまで考えて、わたしは渡された名刺入れを開いて一枚の名刺を取り出した。「相羽探偵事務所 笹神涼」と書かれている。住所は西新宿。探偵の担当範囲がどれくらいのものか知らないが、ファミレスでの事件も西新宿だった。仕事ではなくても、わたしが同僚と食事にいったと考えても無理はない。
「相羽探偵事務所?」
「所長の他に六人の調査員がいる中堅どころの探偵事務所です。その中で二十三歳のあなたが一番の若手だそうです。所長でいらっしゃる相羽善助氏と警視庁刑事部の加佐村警視が揃ってそう証言しましたからあなたがその探偵事務所に所属していることは間違いのない事実でしょう」
「それが事実として、新聞記事とわたしがどう繋がる」
「受け入れることが出来るにしろ、出来ないにしろ、あなたは探偵である。このことを前提に話を進めていきます。いいですか」
 素直にうなずいた。いま一つしっくりとこないが、わたしが記憶をなくした経緯を聞くことは損な話ではない。西垣の話のどこかにキイワードがあって、それを聞いた瞬間に記憶のスイッチが入る可能性もある。わたしはもう一度深くうなずいた。
「相羽探偵事務所の記録によると、あなたは外資系の製薬メーカーであるJ&Wメディカル・ジャパンの医療プロジェクトチーム責任者塩村和幸氏の護衛を引き受けています。期間は一週間。その初日にあなたは襲われたわけです」
「聞いているとわたしがとんでもなく無能な探偵に思えてくるな」
「それについては後でお話しましょう。まずは事件についてです。あなたと塩村氏は事件当日に京王プラザホテルの会議室で幾人かの研究者と会っています。その会議は深夜まで及び、あなたがたは食事にいくためにファミレスに出かけていった」
「それはおかしくはないか。ホテルで会議をしていたのならホテルで食事を摂ればすむことだろう。京王プラザともなればそれが出来ないとは思えない」
「加佐村警視もそういう言い方をされましたよ。塩村氏だけであればともかく、探偵であるあなたがついていながら無謀なことを行なうとは考えられないと」
 西垣はさっきも加佐村という名前を口に出した。警視というからには警官だろう。探偵という職業がわたしのものなら警官の知り合いがいたとしてもおかしくはないが、刑事部の警視という立場の警官がわたしの仕事と重なるとは考えにくい。刑事部の仕事は凶悪事件であって、探偵の扱う素行調査や信用調査ではないのだ。
「しかし、わたしは塩村とファミレスにいった。そこで事件にあったわけか」
「ファミレスの方ではあなたがたが入店されたという証言が得られなかったそうです。つまり、ファミレスに入る前にあなたがたは襲われたことになる」
「そのことについて、塩村は何も証言できないのか」
 言ってからしまったと思った。記事によれば男の方は意識不明の重体のはずだ。彼が話すことが出来るのなら、記憶喪失のわたしに事件の話をする必要はない。
「彼が何も話せない状態だからわたしにお鉢が回ってきたということか」
「少なくとも加佐村警視はそう思っているようですね。私としては治療の一環としてあなたにあなた自身を取り戻してほしいと考えているだけですが」
「それだけだったら、事件のことを話す必要はないだろう。人間にとって誰かに襲われるということは非常に不愉快なことだ」
 西垣は柔らかく笑って、わたしが無意識に持っていた煙草を取り上げた。灰は床に落ちるに任せていたが、吸い殻はそういうわけにはいかないらしい。西垣はズボンのポケットから携帯用の灰皿を出してフィルターまで焦がしたラークを放り込んだ。
 わたしはそれを見て、また煙草が欲しくなり、更に一本銜えてライターを擦った。西垣が携帯用の灰皿を渡してくれた。煙は最初に吸ったほどの刺激をわたしに与えてくれなかったが、脳を活性化させるには充分だった。抑えきれないほどの好奇心。わたしは事件のことをもっと知りたいという欲求にとりつかれていた。
「不愉快なことだが。わたしに起こったことだ。解決しなくてはならないだろう」
「この先私には事件について話すことはあまりありませんよ」
「それでも構わないが」
「そうですね。塩村氏とあなたは後から鈍器のようなもので殴られたようです。まずはあなたから殴り、続いて塩村氏だったようですね」
「つまり、わたしは探偵として失格だったわけだ」
「探偵といえども万能ではありませんよ。私たち医者がそうではないように。あなた以外の有能な探偵が同じ場所にいたとしても、あなたと似たような状態になったことは間違いないでしょう。それは塩村氏があの場所にいたことを考えれば必ず起こったことです。あなたが気にすることではない。それよりも問題にするべきことはどうしてホテルで食事を摂らず、ファミレスに足を運んだかということでしょう。そのことが解決すれば、あなたの記憶を辿ることも難しいことではなくなる可能性がある」
「ファミレスにいった理由?」
 なんとか思い出そうとして、考えを自分のことだけに集中させる。煙草がそれを助けてくれた。依頼人がわたしになにか言い、わたしがそれを承諾する。そのような光景が脳裏に浮かんだ。だが、それはそれだけのことで鈍痛とともに真っ白い空白が頭を包んだ。
 結局は何も思い出せないということだ。探偵だった自分のことは分からないが、今の自分は本当に無力だと思う。塩村と加害者以外の人間で唯一の目撃者でありながら、この網膜に犯人を焼き付けていながら、手がかり一つ示すことが出来ないわたし自身が情けなかった。
「焦る必要はありませんよ。記憶喪失というものは病気ではないのですから。あなたが怪我人であることは間違いのない事実ではあるけれども、それについては適切な処置がなされていることだし、毎日の消毒と加療を行なえば治るものです。まあ多少の傷は残るでしょうが、女性の方ですから髪で隠すことも可能でしょう。あなたは何の心配もなく治療に専念できる。記憶を辿る時間だけはたっぷりとあるのですから」
「別に焦ってはいないさ。ただ自分が探偵だという事実が受け入れられないだけだ。しかし、新聞記事を持ち出してまでわたしを担ぐというのは手が込み過ぎてるからな。先生の言っていることは事実に間違いはないのだろう。となると、自分の中にあるわたしというものの考えと事実とはまったく違うものになってしまう」
「探偵という職業は立派なものだと思いますが」
「確かになくてはならないものだろう。その必要性を認めるのに吝かではない。だが、わたしは女として生きている。探偵という職業が一番向かない人間なんじゃないか」
「女には向かない職業ですか」
 西垣は呟き、少し考え込んだ。
 わたしは煙草を吸い、その先で赤く光る火種に視線を集中した。確かにこの光景には見覚えがある。考えをまとめるとき、雑念を取り払うとき、気分を転換するとき。わたしは煙草を吸い続けてきたような気がする。しかし、それはわたしが探偵だということの決定打にはならない。わたしが探偵以外の職業であっても、いや、無職であっても煙草を吸う人間である以上そのような動作をするはずだからだ。また頭が痛くなる。灰を床に落として、灰皿に放り込んだ。中にアルミがコーティングされた携帯用のそれは蓋を閉めると中の熱さを外に伝えることはない。まるでわたしの頭のようだった。意識に鉛がコーティングされて、閉じこめられた記憶が蘇ってこない。通常生活をするには取り立てて支障はないようだが、わたし自身の記憶がないことは恐ろしく不安なことだった。
「探偵ということはいったん置いておきましょうか」
「いや。わたしが認めたくないのは無能な探偵だという事実かもしれない。護衛が必要な塩村を深夜のファミレスに連れ出し、その目的を達することもなく怪我を負わせてしまった。それはわたし自身を否定することじゃないのか」
「それは違うと思いますよ。消極的な考え方をするものではない。起こってしまったことは起こってしまったことです。それは誰にも取り返すことは出来ない。しかし、あなたは記憶さえ戻れば加害者についてなんらかの証言が出来るということです。つまり、あなたを悩ましている原因は探偵としての任務の失敗ではなく、記憶喪失だと言えます」
 わけが分からなくなって、煙草の箱を開けた。残り八本。この病室で二本吸っているから、残りの十本は他の場所で吸ったことになる。それは探偵事務所かもしれないし、ホテルの会議室であったかもしれない。続けさまに吸った先程のことを考えるに、わたしは相当のヘビースモーカーであったことだろう。となると、朝からの護衛に煙草一箱では足りるはずもない。そこら辺りからなにか蘇ってこないか。
 何も考えず、煙草を見つめ、ライターを玩んだ。西垣も何も言わない。静かなときが流れる中で、窓の外から蝉の鳴声が聞こえてくる。都会の真ん中で真夏の暑い中、本能の赴くまま鳴き続ける。わずか一週間の地上での生活。その中で彼らはどのような記憶を残していくのだろうか。そのことを考えれば、今のわたしは脱け殻のようなものだ。
「何も思い出せないか」
「記憶喪失というのは非常にメンタルなもので、治療にも長い時間がかかるものです。薬を打って無理矢理記憶を蘇らせるという方法もありますが、私はお薦めしません。廃人になる可能性があるということもあるますが、それよりも急激に戻る記憶が混濁を起こすからです。それでは治ったとは決して言えないでしょう」
「それでもわたしがその方法を選んだとしたら」
「強制は出来ませんが。私の治療方針はあなたに関係することを中心としたカウンセリングです。それで充分にあなたの記憶は戻ると考えています」
 記憶が戻ったことを想像し、失敗した。わたしは確かに頭に怪我をしているし、記憶を失っている。普通に人生を送っている人間にとってそのどちらかを経験することでさえ大変なことだろう。その両方を一度に経験するということは危険性の高い仕事に就いていたことを意味しないだろうか。つまり、わたしの職業は探偵であること。そこまでは認められるのだ。それでも、わたしが素行調査や信用調査でまるっきりの他人を尾行しているところはわたしの頭のなかのスクリーンには映像を結ばなかった。
「わたしの記憶が戻ることを待っている人間はたくさんいるのだろう。先生の言う通り、わたしがこの記事に書かれている被害者としたら警官が大量に押しかけてきても不思議ではない」
「それはその通りですね。実際、警察官の方は何人か見えられましたよ」
「加佐村のことか」
「その方もそのうちの一人ですが。その他にもたくさんの警察の方が見えられています。この病院と事件の捜査本部が置かれている新宿署はほとんど隣といっていい距離ですからね。しかし、だからといって無理にあなたの記憶を引き出すようなことはしません。警察の捜査も大切なことでしょうが、あなた自身の精神的なことも大切ですから」
 煙草を銜え、ライターを擦った。肺も煙で満たし、徐々に体に馴染ませていく。
 警官と会いたい気持ちが沸き上がる。協力出来るわけではないが、わたしが被害者である以上、一番詳しい話が出来るのは担当の警官だろう。それがわたしにとって危険なことなのかは判断できなかったが、そう思うことは探偵だったというわたし自身の性かもしれなかった。
「警官の名前。加佐村といった。その警官に会わせてくれないか。わたし自身のためにもその方がいいのではないかと思うのだが」
「嫌な思いをするかもしれませんよ」
「このまま宙ぶらりんでいることよりはいくらかましだろう。先生と話し続けることのがわたしにとって一番安全な治療法であることは分かっているんだ。そのことが分かった上で頼んでいる。わたしはわたしを取り巻く状況をすべて知っておきたい」
 西垣はしばらく考えていたが、わたしが三本目の煙草を灰皿に放り込むと顔をあげて、わたしに笑顔を見せた。
「分かりました。すぐにでも新宿署の加佐村警視に連絡を取ってみましょう。彼もあなたの記憶喪失のことはよく知っているはずですから無茶はしないとは思いますが。私が立ち会いでよければ許可いたしましょう」
「それで構わない」
「ではさっそく手配しましょう。その他に希望はありませんか」
 わたしは一瞬口篭もり、自分の欲しいものを考えた。まずは退屈しないもの。出来ることなら、この事件の続報。後で聞けるとわかっていてもやはり気になるものは気になる。これもわたしの本性なのだろうか。
「時計と今日の夕刊を。とりあえずはそれでいい」
「分かりました。それくらいのことでしたら気を使うことではないと思います。さっそく手配しておきましょう」
 わたしは黙って頭を下げた。これから長い間付き合っていかなければならない先生への挨拶のつもりだった。

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