「見えない彼」       今里浩紀


         回想

 電話が鳴る。
 深夜、暗闇の中でのいつもの儀式。
「はい。……」
「……」
 篤史が延々と上司にいえない言い訳をし、わたしがそれを黙って聞き流す。彼はわたしに対して、電話の相手をする以上のことは要求しないし、わたしも彼との関係に変化を望んではいない。
 このまま永遠に。
 しかし、何も行動を起こさなければ、わたしは成功と名誉を手に入れ、彼よりもはるかな高みに登ってしまう。そうすれば、関係は変わらざるをえない。多分、悪いほうに。
 わたしは頭を振り、先生からもらった薬を二錠、水とともに飲み込む。心配事があるときはこうしなさいといわれている。気休めだとわかっているが、飲むと少しは楽になる。特に、この電話の相手をするときには。
「……聞いてるのか」
「聞いてる。篤史がいうことを聞かないはずがないじゃない」
「そうか……」
 今日はいつまで続くのだろう。五分で済むときもあれば、朝までかかることもある。わたしはずっと篤史のことばを聞くだけだ。
 わたしはいつでも眠りに就けるようにベッドの上に移動する。一人で使うには大きすぎる枕を抱え込んだ。
「篤史。本当のところ、今日はどんなことをやらかしたの?」
 一瞬、静まった電話の向こう側。すぐに言い訳のことばが束になって吐き出された。

         1

調査報告書
一 依頼人の住所、職業、氏名、年齢
  東京都新宿区百人町一ー××ー××
  会社役員 菊池隆一
  昭和十二年五月十四日(六十歳)
二 調査対象人の住所、職業、氏名、年齢
  東京都新宿区高田馬場四ー××ー××
     エルクレセント七〇六号室
  デザイナー 菊池恵美
  昭和三十七年六月二十四日(三十五歳)
三 依頼人と調査対象人の関係
  父親と実娘(長女)
四 依頼内容
  調査対象人の三日間の素行調査
五 期間
  平成九年
  十二月五日(金)〜同月七日(日)
六 依頼理由
  調査対象人の個人的な理由による
七 調査対象人の写真の有無 あり
  スナップ一枚 本人判別可能
  社員旅行の記念写真 社員判別可能
八 調査報告
  十二月五日(金)
  午前七時二分
  ゴミ出しのため外出(五分間)
  ジョギング(三十分間)
  対象との接触者 なし
  午前十時七分
  出社のため外出
  デザイン事務所(坂本
  尚子社長 従業員十二人 新宿区西新宿
  一ー××ー×× 新宿ハイタワービル三
  十三階)への通勤経路
  JR高田馬場駅まで徒歩、JR高田馬場
  駅からJR新宿駅まで山手線、JR新宿
  駅から西口、中央通り地下、新宿ハイタ
  ワービルに至る(三十六分間)
  対象との接触者 なし
  午後一時三十一分
  昼食のため外出
  喫茶店ラガール(新宿ハイタワービル一
  階)(三十二分間)
  対象との接触者 あり
  江口晴紀(同僚)
  渡辺徳雄(同僚)
  沢口環(ラガール従業員)
  午後三時十四分
  打ち合せのため外出
  喫茶店ラガール(七十四分間)
  対象との接触者 あり
  オカダ(取引相手と思われる)
  ヤマウチ(取引相手と思われる)
  午後九時三十五分
  夕食のため外出
  郷土料理店鰍沢(新宿区新宿三ー××ー
  ×× 芙蓉ビル五階)(九十一分間)
  対象との接触者 あり
  坂本尚子(社長)
  江口晴紀(同僚)
  渡辺徳雄(同僚)
  森野のぞみ(同僚)
  鰍沢あゆみ(鰍沢総料理長)
  木村永佑(鰍沢従業員)
  午前零時十三分
  帰宅のため外出
  新宿タワービル、中央通り地下、新宿駅
  西口、JR山手線を経て、高田馬場へ。
  コンビニでビール、チーズ等を購入後、
  帰宅(五十六分間)
  対象との接触者 あり
  タカハシ(コンビニ従業員)
  以降、外出なし
  午前二時二十三分
  消灯
  十二月六日(土)
  午前七時三分
  ジョギング(三十分間)
  対象との接触者 なし
  午前十時七分
  出社のため外出
  道順は前記の通り(三十七分間)
  対象との接触者 なし
  午前十一時五十九分
  昼食のため外出
  喫茶店ラガール(四十七分間)
  対象との接触者 あり
  江口晴紀(同僚)
  渡辺徳雄(同僚)
  沢口環(ラガール従業員)
  午後四時十七分
  外出
  喫茶店ラガール(二十二分間)
  興奮した様子で入店。ラガール従業員に
  対して、乱暴な口調で注文し、携帯電話
  で十二分間通話を行なう。通話相手はミ
  ヤモトアツシ。職業は不明。会話内容か
  ら、当日あるいは後日の約束を反古にさ
  れたものと思われる
  対象との接触者 あり
  沢口環(ラガール従業員)
  午後十時三十七分
  夕食のため外出
  居酒屋やまと(新宿区西新宿一ー××ー
  ×× マイルストーンビル三階)(七十
  五分間)
  対象との接触者 あり
  坂本尚子(社長)
  江口晴紀(同僚)
  渡辺徳雄(同僚)
  一条京美(同僚)
  ムラヤマ(やまと従業員)
  ササキ(やまと従業員)
  午前零時十六分
  帰宅のため外出
  道順は前記の通り(四十九分間)
  帰宅途中、コンビニに寄り、ミネラルウ
  ォーター、ビール、チーズ等を買い、帰
  宅
  対象との接触者 あり
  ヤマシタ(コンビニ従業員)
  以降、外出なし
  午前一時四十四分
  消灯
  十二月七日(日)
  午前七時十三分
  ジョギング(三十分間)
  対象との接触者 なし
  午前十一時三十七分
  外出
  郵便局(七分間)
  キャッシュディスペンサーで、現金数万
  円をおろす。目的不明
  対象との接触者 なし
  喫茶店リオ(三十六分間)
  週刊誌を読みながら、コーヒーを飲む。
  記事内容については不明
  対象との接触者 あり
  岸田理央(リオ従業員)
  スーパー東光(三十二分間)
  店内を三周した後、林檎、檸檬、キャベ
  ツ、ブロッコリー、人参、じゃがいも、
  牡蛎、ミネラルウォーター、ビールを買
  い、キャッシャーで清算後、出店
  対象との接触者 あり
  宮川(スーパー東光従業員)
  午後零時五十四分
  帰宅
  以降、外出なし
  住民以外のマンションへの出入りなし
  午前零時十三分
  エルクレセント七〇六号室の出窓を大き
  く開き、対象である菊池恵美が身を乗り
  出して、そのまま自宅マンション前の道
  路に転落した。窓からは他の人影は見え
  ず、対象の行動から事故とは思えず、自
  殺の線が濃いと判断した
  午前零時十五分
  当然の処置として、探偵はマンション前
  の公衆電話から、救急車を呼び、警察に
  連絡した。しかし、探偵の眼からみて、
  対象の死亡は明らかであり、対象の今後
  の調査については、五分後に現場に到着
  した戸塚警察署刑事課によって引き継が
  れることとなった
九 その後の捜査について
  戸塚署の発表から
  菊池恵美のマンションの部屋は、彼女自
  身が飛び降りた出窓を除いて、玄関等す
  べての出入口に施錠がしてあり、また、
  彼女の素行調査を行なっていた目撃者の
  証言から、内部に本人を除く別の人物が
  いた可能性も非常に低いと思われる。更
  に、室内に争った形跡もなく、彼女が使
  っていたと思われる机の上に、『生きる
  ことに疲れた』と走り書きされた遺書ら
  しきメモが見つかっており、当事件は菊
  池恵美本人による発作的な自殺と判断す
  るものである
十 必要経費
  合計六七一五円
  交通費以外の領収書 あり
以上の件、確かに報告いたします
平成九年十二月十日
    調査担当責任者   笹神涼
    相羽探偵事務所所長 相羽善助


         2

「訴えるって騒いでるんだって」
 田中は、わたしの顔を見るなり、気の毒そうな表情を浮かべて、わたしの隣にどっかりと腰をおろした。すぐにマイルドセブンを銜え、百円ライターで火を点ける。
「お前も、大変だ」
 人懐こい笑顔と顔に似合わないしつこさが特徴で、張り番にも地道な調査にも強い。所長が退官前に一年間だけ刑事課長を務めた武蔵野署に、刑事として配属されたのが縁で、依願退職後、相羽探偵事務所で働いている。警官時代は有能だったらしいが、辞めた理由は聞いたことがない。おそらく、これからも聞くことはないだろう。同僚の過去は知らなくても、仕事上では信頼できる。相羽探偵事務所はそんな職場だった。
「美人だったそうじゃないか。自殺する理由でもあったのか」
「知ってたら、真っ先に依頼人に教えるさ。それができないから依頼人が騒ぎだす」
「それでも自殺だろう」
「その通りだ。接触を許されていない以上、自殺を止めることは不可能。ましてや、七階から落ちてくる対象を受けとめるなんていうのは問題外だ」
「そんなことをいっているのか」
「似たようなものだ。わたしが見張ってた以上、対象の死亡に対して、わたしには責任があるらしい」
「大変なことだ」
「そう思うなら、代わってくれ」
「実の親だろう。もっとも関わり合いたくない相手だな。警官であっても、探偵であっても、通行人であっても、娘の死になんらかの関係があれば、その誰かに責任を負わせたいと思うもんだ」
「わかっている」
 菊池恵美がマンションから飛び降り、所轄である戸塚署が自殺と判断した事件を、依頼人は蒸し返そうとしている。
 彼女の素行調査を行なったわたしを、業務不履行で訴えたところで、得することなどありもしないだろうに、依頼人である菊池隆一は娘の死にとことんこだわった。
 毎日のように戸塚署に出かけ、彼らが相手にしないと知ると、責任追求の矛先を相羽探偵事務所に向けた。彼の頭の中では、調査責任者であるわたしが娘の命を守ることまで、依頼内容に入っていたらしかった。
「それで。どう扱うつもりだ」
「ほっといたら、事務所を訴えたついでに、報告書にある名前を片っ端から突いて回るだろう。娘の死に関係があると決めつけて」
「災難だな」
「だから、わたしが貧乏くじを引く。で菊池恵美の話を聞き、ミヤモトアツシを探す。二日以内に結論を出すとなだめて、彼女の部屋の鍵を預かり、調査することになった。期間内に、父親が納得できる死因を提示できなければ、我らが所長はめでたく被告席に座ることになる」
 田中はにやりと笑って、大きく伸びをし、フィルターまで燃えかけている煙草を灰皿に押しつけた。
「貧乏くじだといっただろう。これでまた、わたしは嫌われ者になる」
「そうか。まあ、がんばれ」
 いいたいことだけいって、田中は立ち上がった。何だかんだいって、探偵には自分で抱えている調査がある。今、手を割けるのはこの調査を担当したわたしだけだ。そんなことはわかっている。しかし、菊池恵美という女の死に関係しない田中の調査を、これほど羨ましいと思ったことはなかった。


         3

「探偵……さんですか」
 新宿タワービル三十三階。の受付を突破して、接客用のソファーに浅く腰掛けても、客としてコーヒーを出されても、社長である坂本尚子に名刺を差し出すと同時に、不機嫌な顔をされて、こんな台詞を吐かれる。探偵という職業に就いてから六年という時が経つが、まともな眼で見られた試しがない。懇願するか、見下すか。一般人にとって、探偵という職業は覗き屋そのものだとわかっていても、こういう反応には何年経っても慣れるものではなかった。
「何の御用でしょうか」
 三十代後半から四十代前半。ショートヘアがよく似合う細面の顔。コバルトブルーのスーツを上品に着こなしている。
 デザイン事務所の社長を務める人間にしては、表情に少々険があるが、他人の話を聞かないほど、度量が狭いわけではない。彼女の態度と探偵であるわたしへの対応をみて、そう判断した。
「菊池恵美さんのことで」
「ああ。自殺と聞きましたが。美人で人当たりもよく、取引先の人気が高い子でした。想像力も豊かで、才能もあったのに、残念なことです。あの子の将来はまだこれからだったのに」
 彼女はわたしの目を真正面から見て、そう答えた。見たところ、動揺はない。
「菊池さんに特別な話でも」
「はい。個展を開く予定がありました。彼女も準備に忙しかったはずです。事故ならばともかく、自殺というのは信じられないことです」
「残念ですが。警察からお聞きになっているかもしれませんが、菊池さんの自殺の現場には目撃者がいました」
「そうらしいですね。その方の証言があったから、菊池は他殺でなく自殺と断定されたと聞いています」
「それだけではありませんが」
「……どういうことでしょうか」
「事件が起こったときの状況を総合的に考えて、所轄により、自殺と断定されたということです。そのこと自体には、疑うべき何の問題点もありません」
「わかるようにお話してもらえるかしら」
 友好的とはいいがたい表情を、更に、歪めて、坂本尚子は小さく首を傾げた。
「わたしはある人物から、菊池さんの素行調査を依頼されていました。十二月五日から三日間。彼女が自殺した夜までです」
 人の表情は劇的に変化する。その見本が、今、わたしの目の前に座っている坂本社長だった。彼女は驚きに表情を支配されている。その証拠に、わたしのために作った不機嫌な顔はどこかに飛ばされていた。
「菊池さんの自殺をこの目で確認しました。救急車を呼んだのも、警察に通報したのもわたしに間違いありません。おかげで、警察の事情聴取という不愉快なものに付き合うことになりましたが、それは善良な市民の義務ですから」
「そこまではっきりしていて、これ以上、探偵さんが動く理由があるのでしょうか」
「依頼人の意向で。依頼人は彼女の自殺が信じられない。あるいは自殺に関して、重要な鍵を握っている人物がいる。そう考えています。警察的には終わった事件であっても、依頼人が納得しないかぎり、探偵は仕事を放り出すわけにはいかないんです」
「それで、私どもの事務所に?」
 無意識にポケットの中の赤ラークに手をのばしかけ、テーブルの上に灰皿がないことに気付いて、手を組み直した。
「わたしが調査したかぎりでは、菊池さんは特定の男性と二人きりで会ったという事実はありませんでした。それ以外のことで、この事務所の江口晴紀さんと渡辺徳雄さんとは毎回昼食、夕食をともにするほど、仲がよかったようですが、それ以上ではなかったと考えています」
「うちの事務所の人間についてよくご存じですのね」
 菊池隆一から預かっている社員旅行の記念写真を出した。テーブルの上に置いた。社長も含めて十三人の人間が、二列に並んで笑顔をこちらに向けている。裏返すと、写っている人間の名前がすべて書いてあった。
「これをどこから」
「菊池さんに関係する依頼人としか申し上げられません。日本の探偵にも、一応、職務的倫理感がありますから」
「そうですか」
「それで、江口さんと渡辺さんの件ですが。仲はいいけれども、深い関係ではない。わたしの判断は間違っているでしょうか」
 社長の顔にちらりと苦笑いめいたものが浮かび、すぐに、真面目な表情に戻った。
「探偵さんの推測通りですわ。江口も渡辺も妻帯者ですから、菊池と付き合ってたとすると、いわゆる不倫の関係になります。そんな人間関係が事務所内で起こっていれば、私が気付かないわけがありませんから」
「しかし、菊池さんには特定の恋人がいたと思われます。携帯電話を使って、連絡を取り合うほどの。心当たりはありませんか」
「そうですわね。電話といえば……」
 わたしの問いに無意識に何かいいかけ、坂本社長は急に口を接ぐんだ。わたしを値踏みするかのようにじっくりと見て、コーヒーに口をつける。話すべきかどうか迷っているわけではなく、わたしにその価値があるかどうか見極めているような感じがした。
「ミヤモトアツシさん。この名前に心当たりはありませんか」
「彼に会ったことでも?」
「いえ。彼どころか、わたしは生前の菊池さんとも直接お会いしたことはありません」
「それならどうして」
「菊池さんに直接お会いすることはありませんでしたが、この三日間、わたしは彼女にいちばん近い存在でした。彼女の朝のジョギングから就寝まで付き合った人間でしたから。その彼女が十二月六日に携帯電話で話した相手がミヤモトアツシでした。興奮していて、口調は厳しく、相手が約束を反古にしたことを責めているようでした。その日か次の日かの約束の話だと思います」
「菊池とミヤモトさんの関係は公然のものだったんじゃないかしら。本人もいつも嬉しそうに彼のことを話していたし、結婚も考えてると聞いたことがあります」
「どれくらい前からのお付き合いだったかわかりますか」
「菊池がミヤモトさんの話をしたのは、確か一年くらい前だったんじゃないかしら」
「彼に会ったことは?」
「ありません。私だけでなく、事務所に人間の誰一人として、ミヤモトさんに会ったことはないはずです。不思議なことですが」
 嬉しそうに恋人のことを話す菊池恵美と、結婚まで考えているという彼を誰にも会わさない彼女。自殺した対象には、まったく矛盾する二人の人格が存在する。
 三十五歳という年で、恋愛に対して臆病になっていたことを差し引いても、普通に考えれば、仲のいい友達くらいには彼を紹介していてもおかしくはない。百歩譲って、これからその予定があったとしても、その前に自殺してしまうのはどうしても理解できない。
 となると、考えられるのは一つだが。その前に聞かなければならないことがある。
「それでも、彼の方から事務所に電話がかかってくることがあったのではありせんか」
「電話はよくあったと聞いています。受付をやっている森野が何度も受けています。警察の方にもお話しましたが。森野をこちらに呼びましょうか」
「お願いします」
 坂本社長は内線電話を取り上げ、二桁の番号をプッシュした。わたしはさっき事務所に入るときに話をしたきつい顔立ちをした受付の女の子を思い出しながら、コーヒーに口をつけた。このコーヒーもその女の子が淹れてくれたものだった。
「すぐにきますから」
「はい。ところで、社長さんはミヤモトさんの声を聞いたことは」
「私が電話に出ることは滅多にありません。事務所には誰かしらいるし、私には電話番以外の仕事が山のようにありますから」
 わたしの後からヒールの高い足音が聞こえて、受付の女の子が姿を現した。森野のぞみ。十二月五日に菊池恵美と夕食をともにした人間でもある。
「何のお話でしょうか」
「こちらの探偵さんが、ミヤモトさんのことで、お話したいらしいわ」
「そういうことですか。あたしは警察に話したこと以外何も知りませんが」
「それでかまいません。ミヤモトアツシという人物について、何かわかれば」
「そうですか」
 森野のぞみは社長に目を移し、社長がうなずくのを見て、ソファーに座った。それと入れ替わるように、坂本社長がすっとした感じで立ち上がる。頭の先から足に向かって芯が入っているような完璧な立ち姿だった。
「私がいないほうが森野さんも話しやすいでしょう。話が終わったら、戻ります。森野さん。終わったら声をかけていって」
「はい」
「では。探偵さん。また、後で」
 軽く頭を下げる坂本尚子に、わたしも軽く会釈を返して、森野のぞみの方に向き直った。彼女は探偵であるわたしを目の前にしても、特別緊張した様子はなかった。ただ、きつい表情で、わたしを真正面からしっかりと見つめていた。
「森野のぞみさんですね」
「はい」
「わたしが聞きたいことは一つだけです。ミヤモトアツシさんのこと」
「はい」
「電話を受けられたことがあるそうですね。警察に話したことで結構ですから、もう一度話してみてください」
「はい。たしかにミヤモトさんは何度か電話をかけてきたことがあります。いつも、菊池さん宛で、彼女がいないときでした」
「いないとき?」
「はい。いつも、菊池さんがいないときでした。外出していると答えると、またかけ直すといって一方的に切る方でした」
「そういいながら、菊池さんがいるときにはかかってきたことがない」
「そうですね」
 わたしはポケットから赤い箱を出して、ライターをその上に重ねた。そうすることで灰皿が出てくるわけでもなかったが、少し、頭が働きはじめた気がした。
「ミヤモトさんの連絡先はわかりますか」
「いえ。そういうことは一切いわずに電話を切る方でした」
「やはり一年前から?」
「いいえ。二ヵ月くらい前からでした。菊池さんとミヤモトさんが結婚するとかしないとかいう話を、彼女がした頃ですから、よく覚えています」
「失礼なことを申し上げますが、その声が菊池さんということは想像できませんか」
「まさか。ミヤモトさんは男で、菊池さんは女です。間違えるわけありません」
「イコライザーを使った可能性もあります」
「なんでしょうか」
「変声機。声の高低を変える機械。今ではデパートでも簡単に手に入ります。それで、菊池さんが男の声を使ったということは考えられませんか」
「機械ですか。そういわれると、あたしには自信がありません。菊池さんはそんなことをする必要があったのでしょうか」
「さあ。これから調べてみることです。あなたに聞きたいことはこれだけです。協力ありがとうございました」
 頭を下げると、森野のぞみも軽く頭を下げ、立ち上がると社長を呼びにいった。そして、十分ほどして、社長と一緒に戻ってきたときには、その手にトレイに載せたお代わりのコーヒーとガラス製の灰皿があった。
 わたしは坂本社長に断りをいってから、煙草に火を点けた。
「お待たせしてしまって。森野の話は参考になりましたか」
「そうですね。大変興味深い話でした。ミヤモトさんは菊池さんのいないときにいつも電話をかけてきていたそうです。菊池さんがいらっしゃるときには、電話はかかってきていない。そうすると、菊池さんは、いったいいつ、ミヤモトさんと連絡を取っていたんでしょうか」
「電話があったことはメモとして、伝わるでしょう。折り返し、電話をかければ、連絡は取れるのではありませんか」
 煙草の灰を落とし、コーヒーを飲んだ。社長はじっとわたしを見つめている。わたしが何を考えているか読み取ろうとでもするかのように。そうされると、わたしも抱いている疑問を口にせざるをえなかった。
「菊池さんには、ミヤモトアツシという恋人はいなかったと考えています。三十五歳ともなれば、恋人の一人や二人いてもおかしくはありません。しかし、わたしが調査していた三日間で彼女と接触したプライベートでの男性は存在しませんでした。金曜、土曜、日曜と、普通の女性ならデートの算段をする週末に、菊池さんは何もしていない。たしかに、わたしは十二月六日に、ラガールで約束を反古にしたことを責める電話をかけている彼女を見ましたが、その約束を破ったことはいったいどこから伝わったのでしょうか。森野さんによれば、ミヤモトさんは菊池さんが不在と聞くとかけ直すからといって、一方的に切る人だったそうです。菊池恵美さん。彼女自身がミヤモトさんからの電話を受けたということも考えられますが、それならば、わざわざラガールまで降りて、携帯電話で喧嘩することもなかったはずです。事務所で、二人は公認の仲だったのですから」
「そういえば、そうですわね」
「それで、お聞きしたいのですが。菊池さんがミヤモトさんのことについて、話すときに感じたことをそのままいっていただけませんか。もちろん、彼女が本当のことをいっていることを前提とした上で話してらしたのでしょうから、気付くことといっても、少ないかもしれませんが」
 坂本社長は口を尖らせ、両目を宙に浮かせた。その視線はわたしの顔から、ずっと上の方に移り、天井の辺りを漂った後、くるっと回って、わたしの顔の上に戻ってきた。
「菊池は何でもよく喋る子でした。自分のこと、仕事のこと、恋人のこと。昔話もよくしました。私がこの事務所を開いて、彼女が社員第一号として入ってきた頃の話とか」
「それで」
「漠然と感じたことですから」
「それでもかまいません」
「彼女の話は、実体がないというか。それよりも、話している内容がないというか。私が一緒に体験した昔話や仕事の話は、きちんと話せるんです。私にもイメージができるくらいに。しかし、恋人の話は本当に希薄に感じました。薄っぺらで、実体がないといえば、お分りになるのでしょうか。どんなに話を聞いても、ミヤモトさんという方がどんな方なのか、まったく想像できませんでした。こういうことをいうのは彼女には失礼なのかもしれませんが」
「会わせてほしいと思われたことはなかったのですか」
「何度もあります。直接、菊池にいったことも一度や二度ではなかったと思います。そのたびに、そのうちに会わすからということばにはぐらかされてしまいました。もっと、強くいったほうが、彼女のためにも、よかったのかもしれません」
 煙草を灰皿に押しつけ、テーブルの上の赤い箱とライターをコートのポケットにまとめて戻した。わたしの考えはほとんどまとまっていた。菊池恵美が自殺した理由についてはまだはっきりしたわけではなかったが、ここで、坂本尚子に聞くことはたった一つしかなかった。
「菊池恵美さんの自宅マンションにいかれたことはおありでしょうか」
 少し沈黙があり、社長はわたしを真っすぐに見つめて答えた。
「一度もありません」
「ありがとうございました。これで、彼女の死に関して近付けたような気がします」
「どういうことでしょうか」
「そのことについては改めて、報告に上がります。今日は貴重な時間を割いてもらって、ありがとうございました」
 わたしは立ち上がり、不思議そうにわたしを見つめる坂本社長に軽く頭を下げ、デザイン事務所を後にした。
 もうここには知りたいことはない。

         3

「問題は一つか」
 からの帰り道、手近にあった電話ボックスに飛び込み、新宿区の電話帳を広げて目的の番号を探し、電話を一本かけた。相手はわたしが疑問に思っていることに関する本を出している。同僚である清家が通っていた大学で講師として、講義を受け持っている。
 わたしは電話に出た本人と自己紹介めいた話を儀礼的にした後、菊池恵美の事情を詳しく話した。幸いなことに、相手は興味を持ったようで、素人であるわたしが推測した話を最後まで聞いてくれた。
「それは大変な話ですね。もしかしたら、あなたの話している彼女だけの問題ではなくなるかもしれない」
「推測が間違っているのでしょうか」
「詳しい話は直接会って話した方がいいでしょう。しばらくは大学にいます。今から都合がつくなら、出てきなさい」
「わかりました。では、これから」
 電話を切り、わたしは自分の推測を固めるために、電話の相手が仕事をしている大学へ向かうべく、新宿駅に足を向けた。


         4

「うまくあしらわれたもんだ。何も聞かされずに帰ってきたことになる」
「何も聞かずにってことはないだろう。充分に納得できる答をわたしは坂本尚子から引き出してきた」
「そうか」
 コーヒーを淹れてくれたのはいいが、田中はわたしのでの調査結果を聞きおわるなり、ケチをつけた。
「坂本尚子だけでなく、会社の人間すべてに話を聞くべきじゃないのか。調査に手落ちがあれば、依頼人は納得しねえぞ」
 正しい結果を残すためには、努力を惜しまないのが調査の基本。元警察官の田中にはこの性癖が体臭のように染みついている。だから、彼と組む調査は肉体的にかなりきついものになる。それだけに得るものが多いのも事実。彼の調査方針に異存はない。
 しかし、これはわたしの手懸けた調査だ。わたしにはわたしのやり方がある。いつまでも、警察官のやり方を真似ていたのでは、探偵としての進歩はない。
「どの道を通っても、正しい道を選んでいれば、結局山頂にでることに間違いはない」
「なんだって」
「わたしはわたしの道で、真実にたどりつくといったんだ。それに、をいくら突いても、何もでないだろう。彼女は美人で人当たりもよく、仕事がよくできた。それ以上の答は戻ってこないさ。個展のことで悩みがあったのかもしれない。ミヤモトアツシとの仲がうまくいってなかったのかもしれない。そんな話ばかり聞かされるのはうんざりする。違うか」
「関係者の話を……」
「総合して矛盾を見付ける。警察のやり方はそうだし、そのやり方が間違っているとは思わない」
 わかってるじゃないかという顔をして、田中はコーヒーを飲んだ。つられて、わたしも口をつける。
「しかし、これは殺人事件じゃない。彼女の部屋には誰もいなかったし、鍵もしっかりとかかっていた。菊池恵美が自殺したことは間違いない。それに、目撃者のわたしがいる。これが信じられなくなったら、わたしは探偵じゃなくなってしまう」
「ミヤモトアツシという彼氏と電話で口論になった以外、自殺する原因はなかったのだろう。それに、男に振られたわけじゃない。彼女の方が一方的に責めていた。後で自己嫌悪に陥ったとしても、自殺までするか」
「だから、ミヤモトアツシのことさえ聞ければ充分だった。菊池恵美にとって、ミヤモトアツシという人間は大切なものだった。この事件を解く鍵はそこにある」
「お前……」
「だから、専門家に話をつけてきた。依頼人との会見には同席してくれるそうだ。ありがたいことに」
「専門家だって?」
 にっこりとした笑顔を田中にサービスしてやった。わたしのとっておきの奴だ。誰だって不機嫌になる。田中もその例に洩れず、表情を引きつらせていた。


         5

「これで、全部ですか」
「警察にも同じことを聞かれた。私はそれが恵美が死んだ理由だとは思っていないが」
 菊池恵美の部屋は引っ越しの準備をしていたと聞かされても、そのまま信じてしまうくらい、ものがなかった。
 小さなバッグが置き去りにされている寝るためのベッド。遺書が載っていたという机。キッチンと冷蔵庫。コードレスホン。なぜか子機だけが床に転がっている。
 それ以外にはなにもなかった。テレビも、オーディオ機器も、本棚さえも。雑誌の一冊もない。
 それでも。ここに人さえいれば、生活はできる。
 しかし、ここには菊池恵美が生きていたという生活感がまったくなかった。この部屋からは彼女が何を想い、何を夢見て、暮らしていたのか、まったく伝わってこなかった。
「日記帳のようなものは残っていなかったのですか」
「随分と探したが。せめて、恵美の書き残したものがあれば。探偵などに調べさせたのが間違いだったのかもしれん」
 依頼人である菊池隆一は、自分のこと、そして、死んでしまった娘のことを考えることで精一杯のようだった。目線も話をしているわたしではなく、転がっている電話の子機をじっと眺めている。わたしが連れてきた同伴者に対しても、わたしの同僚と思っているのだろう。関心を見せようともしなかった。
「住所録の類は」
「この部屋は恵美が死んだときのままにしている。一番上の抽斗に入っていたはずだ」
 すぐに抽斗を開け、一九九七とかかれた茶色の表紙をした手帳を引っ張りだした。予定表と住所録を組み合わせたもので、年号が違う手帳が十二冊入っていた。
「この中に菊池さんの知っている名前はありましたか」
 菊池隆一は首を振る。
 それを見て、ぱらぱらと手帳のページをめくった。デザイン事務所の同僚の名前がずらりと並び、後は知らない女友達の名前が十人ばかり、取引先らしい会社の名前が二つ、三つ。旅行代理店、文房具店、書店が几帳面な字で書き留められてあった。
 ミヤモトアツシの名前はなかった。
「同じものがバッグの中に入っていると思います。調べてもらえますか」
「同じ名前が書いてあるだけだ。見ても無駄じゃないのか。警察も何も見付けられなかった」
「仕事に使っているものと、予備にとっておくものでは、違いがあるでしょう。予定表と組み合わせているものなら、会社でしかメモできないものもあるはずです。それに、探偵のやり方は警察とは違いますから」
 依頼人はここで初めて目線を上げて、わたしを睨みつけた。そして、ベッドにゆっくりと歩み寄り、バッグを取り上げて、中身を全部ぶちまけた。わたしが持っている手帳と同じもの。名刺ホルダー。携帯電話。化粧ポーチ。筆記道具。それだけのものが、ベッドの上に広がった。父親はその中から、手帳と名刺ホルダーをつかんで、いきなり、わたしの方に投げつけた。
 彼の行動を予想していなかったわたしは投げられたものを受け取ることができず、ものを床に落としてしまったが、依頼人は何もいわず、ただ睨みつけられただけだった。
 床から手帳と名刺ホルダーを拾いあげる。この家の主人が死んでから何日も経つというのに、埃はたまっていない。警察の捜査もあっただろうに、きれいなものだった。
「この部屋の掃除は誰が」
「そんなことが娘の死と関係があるのか」
「いえ。ちょっと気になったものだから。これだけ部屋をきれいにしていると、発作的というより、覚悟の自殺の可能性を疑いたくなります」
「自殺ではないことを証明するのがお前の仕事だ。部屋の掃除など知ったことではない。娘には関係ないことだ」
 協力的ではない。
 彼をいないものとして扱うことに決め、仕事用の手帳を一ページずつめくり、続いて、名刺ホルダーに収められている名刺をすべてチェックしていった。
 ここにも、ミヤモトアツシの名前はない。それどころか、ミヤモトという名字も、アツシという名前もなかった。名前を抹消した痕跡は、住所録のどちらにもなかった。
 わたしは手帳と名刺ホルダーをまとめて、同伴者に渡し、彼がうなずくのを見て、依頼人の方に向き直った。
「ミヤモトアツシという名前に心当たりはありませんか」
「警察にもそう聞かれたが。娘の交際相手だということだった。だが、警察は彼を見付けられず、自殺と断定した」
「それ以前に。娘さんから聞いたことは」
「なかったはずだ。うちの奴も知らないといっていた」
 わたしは、依頼人がベッドの上にぶちまけたままになっている携帯電話を取り上げた。知っているタイプのものだ。田中が使っている。慣れた手つきで、短縮ダイヤルの連絡先を呼び出した。十三件。すべてデザイン事務所の関係者の番号だった。
 リダイヤルを押してみる。の番号がきれいに並んだ。コール音が鳴り響く。
「はい。でございます。毎度お世話になっております」
 森野のぞみの声だった。
「相羽探偵事務所の笹神と申します。昨日はどうも。質問したいことがあるんだが、いいかな」
「ええ。あたしでよければ」
「この一週間以内に、菊池さんから電話がかかってきたことはありませんか」
「そうですね。十二月五日の朝に一度だけ。それより以前には、十一月に出先からかかってきたことがありますが」
「電話を他に人が受けたということはないかな」
「ないと思います。聞いてみましょうか」
「お願いする」
 のぞみの声は保留メロディに変わり、すぐに元の声に戻った。
「菊池さんからの電話を受けたことはなかったそうです。何か大切なことでしょうか」
「いや。なんでもない。確かめたかっただけだ。もう一回同じ電話がかかるかもしれないが、気にしないでほしい」
「わかりました」
 電話を切り、今度はコードレスホンのリダイヤルを押した。コール音一発で繋がった。の事務所だった。
「笹神だ」
「笹神さん。どういうことですか。からかっているんですか」
「事実の確認をしているんだ。たぶん、これで自殺の原因はわかったと思う。社長にはそう伝えておいてもらいたい」
「そうですか」
 森野のぞみは怪訝そうな声を出したが、わたしはそれ以上は何もいわず、電話を切った。菊池隆一がわたしを食い殺さんばかりの顔で睨んでいた。
「恵美さんが恋愛妄想癖という神経症を患っていることをなぜ黙っていたのですか」
 菊池氏は何もいわず、まだ、わたしをじっと睨みつけていた。そうすれば、自分が受け入れたくない結末を引っ繰り返すことができるとでも考えているかのように。
 しかし、わたしは自分がたどりついた真実に自信を持っていた。菊池恵美は重度の恋愛妄想癖に侵されていた。だからこそ、どんなに探しても、ミヤモトアツシは見つからないのだ。彼は彼女自身が作り上げた分身。そう考えないことには、彼女が誰にもミヤモトアツシに会わせなかった理由、住所録にも名前を記さなかった理由が説明できない。
「父親であるあなたが。娘さんが神経症だったことに気付かないわけはない。個展を開くことが決まって、精神的に不安定になっている彼女のために、探偵を雇った。わたしの推論は間違っているでしょうか」
「お前はその仕事をこなすことができなかった。娘を守ることができなかった」
「あの状況で、恵美さんを助けることは誰にも不可能でした。もし依頼の時に、自殺の可能性があると一言でも注意してもらっていれば、依頼中に命を落とすことはなかったかもしれません。しかし、それは彼女の死が遅くなるだけのことで、同じことがいずれ起こっていたことでしょう」
 菊池隆一はきつく唇を噛み締めたまま、わたしをじっと見つめて立ち尽くしていた。
「この件はわたしの推論を交えて、報告書にしてだします。それで納得してはもらえませんか」
「今、説明してくれ。娘は確かに精神病の気があったが、薬で抑えていたはずだ。いきなり、自殺するようなことになるとは考えれらない」
「一つだけ。お聞きしてもよろしいでしょうか」
 わたしの同伴者が初めて口を開いた。
「なんだ」
「コードレスホンの子機が床に転がっていましたね。それは恵美さんがそうしておられたからですか」
 力ないうなずきが返ってきた。
「私は新宿区で神経科を開業している林田と申します。笹神さんから、菊池恵美さんのことについて相談を受けました。いるはずのない恋人がいるかのように公然と振る舞う。そんな症状がないかと。恋愛妄想癖ということばは私が彼女にレクチャーしたものです」
「精神科の医者か。恵美を診たこともないお前に何がわかる。それとも、ここで何が起こったか、説明できるとでもいうのか」
「私の推論でよければお話します。よろしいでしょうか」
「いいだろう。聞くだけは聞いてやる」
「私は菊池恵美さんの頭の中に、ミヤモトアツシという人格と菊池恵美という人格があったと考えています。つまり、菊池恵美の別人格の出現というわけです」
「別人格?」
「恵美さんの頭の中にあった交際相手の正体です。妄想癖を持つ人間に突然作り出される人格です。本人の頭の中では会話することも可能です」
「出鱈目を」
「私は専門医です。神経症の一種で、そのような症例があります。菊池恵美さんは、頭の中でミヤモトアツシという人格と会話をしていたんです。この電話を通すことで。会話をするには電話をいう手段はもっともポピュラーなものですから。彼女の頭の中で彼からの電話が鳴り、現実には呼び出し音の鳴らない受話器を取っていたと思われます。電話は受話器が外れているという警告音を発していたはずですが、彼女はそれも彼との会話だと思い込んでいたのでしょう。そうすることで彼女は自分自身の精神のバランスを取っていたんです」
「恵美の病気は治ったはずだ」
「父親であるあなたがそういうなら、その通りなのでしょう。恵美さんの症状は表面上は快方に向かっていた。しかし、それは心の中でミヤモトアツシという人格があってこその完治だったんです。彼と架空の電話を通して会話をすることで、精神的なバランスを取っていたんだと思います」
 菊池氏は苦しげにうめいた。彼にとってわたしの同伴者、林田先生のいうことは苦痛でしかない。それでも彼は先生のいうことを聞かねばならない。それが依頼人としてのわたしに対する責任だった。
「そのバランスが突然崩れることになった。彼女の仕事から考えると、個展を開くことだったのかもしれない。対人関係でいえば、ミヤモトアツシという自分自身の人格と結婚することをほのめかしてしまったからかもしれない。それとも……。理由はいくらでもあるでしょう。やじろべえがバランスを失って倒れる時のような突然の混乱が彼女を襲ったのだと思います。彼女の別人格の暴走。ミヤモトアツシと菊池恵美。どちらが破壊願望を持っていたのかは、今となってはわからないことですが、彼女はどちらか人格の衝動的な行動によって、この部屋の出窓から飛び出すことになったわけです。精神のバランスが崩れていたために、止め役だったほうの人格は遺書を残すことしかできなかった。それが精一杯だった。彼女は壊れてしまったんです」
「そんなことが……」
 苦痛のうめき声が洩れる。もうわたしの依頼人は立っていることもできなくなり、ベッドに座り込み、頭を抱えていた。
「坂本社長がミヤモトアツシについて、実体が感じられないと話していました。それはその通りなんです。恵美さんがいかに詳しくミヤモトアツシのことを話そうとも、彼は彼女の人格の一部でしかなかったのだから。自分のことを自分の恋人に置き換えて話しても、臨場感が出せるわけがない」
 林田先生の推論を補強すべく、わたしは彼のことばを引き継いだ。
「しかし、会社にはミヤモトアツシと名乗る男から電話があったというじゃないか」
「それも恵美さん自身の電話でしょう。彼女は精神のバランスを取ることに必死だったんです。だから、何も事情を知らない事務所の人間にミヤモトアツシのことを話した。そして、話が大きくなっていき、ミヤモトアツシは宙に浮いてしまった。今更、一つの人格を形成しているミヤモトアツシを消すことはできない。それでも、菊池恵美という人格は仕事を続けなければならない。相当な無理があったのだと思います。彼女はそれを一年もの間続けてきた。別の人格が暴走するには充分すぎるほどの時間です」
 再び、林田先生が引き取ってくれた。やはり、専門的なこととなるとわたしの手には大きすぎる。タイミングよく割り込んでくれる先生の手際のよさはありがたかった。
「報告書には十二月六日に娘はミヤモトアツシと話していると」
「電話で話しているように見せることは非常に簡単です。周りにいる人間には携帯電話の向こう側の声は聞こえませんから。それに、電話の件は先ほど笹神さんが確認した通りです。携帯もこの部屋の電話も、リダイヤルはミヤモトアツシには繋がりませんでした。彼女の会社、に繋がったんです」
「世間体を気にすることなく、強引にでも娘を入院させておけば……」
「その仮定がどのような結果を彼女に対して生みだすのか。私にはわかりません。それが例え、私の患者になるという意味だったとしても。ただ一ついえるのは、菊池恵美さんは現実としてもうこの世にいないということです」
 わたしは、先生のそのことばを聞いて、小さく息をついた。これから先は、依頼人にどんなに思われようと、わたし自身でいわなければならないことだった。
「このことは報告書にして、郵送しておきます。これが、わたしが見つけだした納得できる答です。いくら残酷なことであっても、受け入れなければならないことなのです」
 菊池氏は声にならない声でうめいた。
 もう、わたしのいうべきことは残っていない。林田先生の方を見たが、彼は黙ってうなずいただけだった。わたしは預かったこの部屋の鍵を机の上に置き、林田先生と一緒に外に出た。空気は冷えきっている。薄闇に包まれた空からは、ちらちらと白いものが落ちてきていた。
 本物の菊池恵美自身の魂が地に帰ってきているのかも。そんな考えがふと浮かんだ。
 空を見上げた。冷たい結晶が容赦なく顔に張りついていく。菊池恵美。自殺した女。
「つらいことに付き合わせました」
「いえ。人は誰でも自分自身の中に狂気を抱え込んでいるものです。しかし、それは軽々しく素人が口にすべきことではない。私はあなたが相談を持ちかけてくれて本当によかったと考えています。あなた一人ですべての話をすることは、依頼人である父親を傷つけるだけだったでしょう。恵美さんに何が起こったのかを説明することは私の役目だったのです」
 黙って頭を下げた。
 先生は優しく笑って、ちょうど通りかかったタクシーを止めて乗り込んだ。先生はもう一度わたしに向かって笑顔を見せ、ドアを閉じたタクシーはそのまま早稲田通りを小滝橋方面に走り去っていった。
 わたしはしばらくタクシーのテールランプを見送っていた。それから、ポケットから赤い箱を取り出し、一本銜えて、火を点けた。大きく息を吐く。そして、ゆっくりと駅に向かって歩き出した。

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